呪いは愛の言葉


幼いころのことを、ぼくはあまりよく覚えていない。
数少ない記憶のひとつが、ローズ委員長がぼくのいた保護施設に来てくれて、ポケモンと初めて触れ合ったあの日のこと。
からっぽだったぼくの人生は、あの日から始まった。

「ぼくはエリートなんです」

最初は言い聞かせるように自分に言い続けたその言葉も、努力した分だけ、勝利を重ねた分だけ信じられるようになった。

「だから、ぼくが負けるはずがない」

なのに。
初めて出会った時から気に入らなかった。
いつものように、ポケモントレーナーと目が合ったからポケモンバトルをした、たったそれだけのはずだった。
心をかき乱されるような不安。初めて感じる焦燥。決してこのひとには敵わないのかもしれないという絶望。
信じがたいような敗北と大人たちの冷たい視線は、悪夢となって幾度となくぼくを責め立てた。
素直に怖いと感じた。
――もしかして、自分は本当はエリートでもなんでもないのかもしれない。
なんにもない、のかもしれない。
そう思った瞬間、自分の心臓の音が恐ろしいほどに大きく跳ねた。

だから。
出会った瞬間からずっとずっと、ぼくはあのひとが嫌いだった。
あのひとは、ぼくが欲しいとおもったもの、ぼくがぼくであるために必死で磨いてきたものを、すべてを持っているような気がした。
なんでも持っているくせに、そんなんじゃないってふうに、のんきな顔でいつも笑って。

「いつだってそうだ、あなたというひとは、いつも自分勝手な理由でぼくを振り回す」

あれから3年。
久しぶりにあのひとから、チャンピオンカップへの招待状が届いた。
わざわざぼくを指名して送ってくるなんて珍しいと思ったが、試合が始まってすぐに異変に気がついた。

◆

試合が終わった後の控室。
いつものように勝利を収めたチャンピオンの輝かしさとは真反対に、そのひとは申し訳なさそうに小さくなって部屋の隅に座っていた。

「あなた、手を抜いていましたよね。ぼくのことを馬鹿にしているんですか」
「ちがうよ、そんなつもりじゃないの、ビートくん。でもね……」

詰め寄るが、妙に歯切れの悪い物言いに苛々する。
すべてを持っているくせに、そんなの望んでいたわけじゃないって言うみたいに、あまつさえ縋るような顔で、ぼくを――。

「……もう、勝ちたくない」

ぽつり、と。
ぼくだけに聞こえる大きさで零した本音は、震えていた。
誰もが憧れるチャンピオンの座でそんな言い草、以前のぼくならすぐさま怒り出しただろうけれど。でも今は彼女の考えてることがわからなくて、ただ何も返す言葉もなく、呆然としていた。
そうして彼女はようやく語り出した。すべての挑戦者に勝ったことを。その裏でたくさんのジムチャレンジャーたちの涙を見てきたことを。
勝ち続ける重圧に耐えかねて、それなのに、チャンピオンである自分を応援する観客の期待を裏切るのも怖くなっていたことを。

3年という月日を無敗のチャンピオンであり続けた彼女にとって、頂点とは、あらゆる栄誉でも称賛でも埋めがたいほどの孤独だったらしい。

「ジムリーダーのみんなには、わざと負けようとしたら、すぐにバレちゃうから」
「そうでしょうね」
「すっごい怒られたし」
「当たり前でしょう。そもそも、戦っている相手の方に失礼極まりないですよね、あなたトーナメントをなんだと思ってるんですか」
「ごめんなさい、それはもう二度とやらないって約束したし、本当に反省してるから……」

消え入るような声で言い訳をしながら、叱られた幼児みたいに手のひらで耳を覆っている。どうやら相当に絞られたらしい。
というか、本当にやったのか。
誰を相手にしたか知らないが、八百長まがいの試合を挑まれた対戦相手には同情する。

「いいですか、ユウリさん」

彼女の名前を呼ぶ。すべてを持っている、忌々しいひとの名前を。
ぼくが欲しかったものをぜんぶ持っているくせに、目の前で今にも泣きそうな顔をしている、ぼくのだいきらいなひと。

「何度でも挑み続けるさ。言ったでしょう、ぼくのハートは砕けない」

――ばかに、するな。

「躊躇うことなんてありません、何度でもぼくを呼べばいいんです。ぼくが――ぼくこそが、あなたを倒します」

唇を歪ませて笑う。言葉が止まらない。
ああ――ぼくはやはり、あなたのことが嫌いだ。

「無様に負けるあなたの前で、ぼくは笑ってみせましょう、そしてぼくが一番だと証明しましょう。あなたが無敗のチャンピオンとして君臨する輝かしい未来なんて、ぼくがだまって見ているわけがない。そんな横暴は許せませんから。安心してくださいよ、ガラルのチャンピオン。メチャクチャにしてあげます」

とびきりの贈りものをしよう。
これは、ぼくにとって最大級の、呪いの言葉。

「エリートでジムリーダーのぼくと出会ってしまったことを、どうか恨んでください」

なのに。
それを聞いた彼女は、うっすら涙すら浮かべて、幸せそうな笑顔で頷いた。

「ビートくん」

ぼくを呼びながらふっと近寄ってきて、そのまま正面から、ぼくの首にするりと腕が伸びてくる。
彼女の身体が覆いかぶさるように、ぐっと身を寄せられて、伝わる熱は、ぼくの不慣れな人肌の温度。

「な、な、なにを」

わけがわからなくて、さっきまではすらすらと出ていた言葉がなにも出てこない。
何がおかしいのか、くすくすと笑う彼女の声はいやに耳に近くて、身動きが取れない。

「あのね、ビートくんがいてくれるなら、わたし、ここにいられるよ。ビートくんに負けたくないからがんばれる」

ありがとう、だいすきだよ――と。
最後に耳元で囁かれた言葉の意味を理解する間もなく、唐突に離れていく体温。
残されたぼくは呆けて座り込んだまま、振り返らずに駆けていく彼女の背中を見上げていた。



呪いは愛の言葉 素直な愛なんて囁けない、ままならないぼくらの関係 チャンピオンは孤独で、ダンデにとってのキバナも、あるいはきっと救いのような存在だったのかもしれない。