門出の朝


「梅雨ちゃんと呼んでほしいの、先生」
あの日、どこまでもまっすぐな彼女から逃げるように、目を逸らした。

「あの時のお願い、聞いてくれないかしら」
数歩ほど前を歩く梅雨がくるりとまわって、覗きこむような視線を向ける。
「もう先生と生徒ではないのだから」

白いうわばきを来客用と印字された茶色のスリッパに履き替えた足元が、ひたひたと足音を響かせていた。夕陽のさしこむ廊下を歩く彼女の背中に、制服姿だった10年前を少しだけ思い出した。幼さの抜けた顔立ちと少しだけ伸びた身長は変われども、卒業式の桜の中で凛と背筋を伸ばしたあの頃から、彼女の印象は変わらない。やや変化に乏しい表情、歳の割に落ち着いた思考。変わり者の多いヒーロー科の生徒であったことを差し引いても、あまり15歳の子供らしくない生徒だった。今のほうがむしろ年齢相応と言ったところかもしれない。あれから10年を経てようやく中身に外見が追いついたというのも、振り返ってみれば彼女が相当に早熟であったことを思わせた。

「私、あのとき先生に助けてもらわなければ、今こうしてここにいることはなかったんです」
「その話はこの10年で何度聞いたかわからないな。聡い生徒だったが、そういうところは合理的じゃない、お前は」
「だって、感謝してるのよ」
「当然だ。俺はこれでもヒーローなんだ」
「そうね。そしてそれ以上に、先生はあのときからずっと、私にとってのヒーローよ」

そう言って微笑む彼女の顔つきがすっかり大人びていることに気づいてしまった。もうあの頃とは違う。彼女との間にある、永遠に縮まることのない15の歳の差。それでも15歳の少女から25歳の女性となった今、当時とは比べ物にならないほど目線が近くなったことを感じる。一方の自分はといえば、不惑の歳になったところで見える世界はさして変わり映えせず、ただ少し色あせたような気がするばかりだ。
彼女の10年と自分の10年では、重みが違う。思春期を経て大人になり、世界を知るこの10年の、なんと色鮮やかなことだったろう。かつて経験したはずの極彩色は、いまはもう思い出せないほど遠い記憶のように感じる。

「だから、相澤先生。梅雨ちゃん、と。一度でいいから呼んでくれないかしら?」
「それこそ今更だろう。もう子供と大人じゃないんだからな」

淋しげな表情に、それでも気づかぬふりをして、送り出してやらねばならない。
思春期の微熱だと言い聞かせたあの日からもう10年。

「――そうね。忘れて頂戴」

今更過ぎて、後戻りできる思いではないのだ。



「ねえ」

行きかけた足を止めて、彼女は振り返る。

「ありがとう、先生」

蛙吹梅雨が微笑む、その表情にもう憂いはない。

「それでは、また明日。さようなら」

また明日、会えるというのに。
かつて毎日交わした下校の挨拶と同じ言葉。それが何故、まるで今生の別れのように聞こえたのだろう。もう二度と会えないような気がしたのだろう。忘れたはずだったのに、見ないふりをして置いてきた気持ちを整理できていないのは自分のほうなのかもしれなかった。

「おめでとう、蛙吹」

見送る後ろ姿は窓辺から差し込むあわい夕陽に照らされてどこまでも美しく、その背中に、素直に幸せを祈った。

くしゃりと髪をかきあげる。
似合わないであろう笑顔も、明日ばかりは贈ろう。大事な生徒の、晴れの門出だ。

次に会う時は、花嫁と招待客。