ふたりぐらし
魔法が解ける鐘の音が、した。 兄弟喧嘩を機に実家を出たトド松くんが、兄と二人暮らしを始めたと聞いた。珍しくこっ酷い喧嘩をしたらしく、あのかわいこぶりっこで荒事なんて縁のなさそうな彼が目元に大きな痣をつけてきたときは驚いたものだった。 普段から小競り合いのような兄弟喧嘩がちょくちょくあることは話に聞いていた。兄弟仲があまり良くないのかなと最初は思ったけれど、どうも数日経ったころには自然と仲直りしてるみたいで、僕にも男兄弟がいたらそんなふうになれたかなあ、なんて存在しない兄弟と過ごす自分を想像してみたこともあった。だけれども、喧嘩で殴りあって怪我するなんて話は知る限りでは初めてだ。青痣の残る喧嘩と聞くと、一人っ子の僕にはとんでもない出来事のように思える。だからそのたったひとつの兄弟喧嘩があの実家大好きっ子に家を出る決意を固めさせるほどの出来事になったということも、至極納得のいく話だった。 二人暮らし、と彼は言った。 兄といっても六つ子の末っ子にあたる彼には兄が五人いるから、そのうちの一人。三番目の兄と言っていただろうか。僕が彼の兄たちについて聞く話といえばいかに彼が末っ子として虐げられているかの愚痴ばかりだったし、あとは写真でそのそっくりな顔を見せてもらったくらい。彼らとトド松くんの関係がどのようなものであったか、僕が知っていることなんてなにもないに等しい。けれど、彼の兄たちは彼と同じく全員がニートで、彼はそんな五人の兄のうち誰を贔屓するでもなく平等にこき下ろしていたような印象があったから、ただ一人の兄と家を出て二人で暮らしていると聞いたときは、正直ちょっとばかり意外に感じたことも事実だった。 とはいえその同居の兄が六つ子のうち唯一就職を決めた兄なのだそうで、だからその二人暮らしは当然の流れなのだろう。これまでニートの兄にたびたび自立を阻まれ、バイトを辞めたり女の子にフラれたり。そのたび愚痴をたっぷり聞かされてきた僕にとっても、彼が実家を出たことは非常に喜ばしいことだった。 一人暮らしの夜が怖くて耐えられないと情けない声で零しながらビールジョッキを煽る彼の話を聞いていた日には自立の道は遠そうだなんて薄情なことを思ってしまったが、こうして自立に理解がある兄と一緒に暮らすことでトド松くんも近いうち就職するのかもしれないな、とついつい親のような気持ちを抱いてしまう。 テーブルの向かいでかわいらしい色のカクテルを飲み干したトド松くんが、少し眠たそうにまぶたを擦る。ねえいまなんじ、と甘えるように訪ねてくる。手元のスマホで時間なんて見れるだろうにわざわざ聞いてくるところに末っ子らしさを感じた。袖を少し捲り上げて腕時計の針を確認し、時刻を伝えてあげると、閉じかけていたまぶたがぱっと開く。 「え、もうそんな時間? そろそろ帰らなきゃ」 「あれ、トド松くんの新しい家ってたしかここから二駅くらいじゃなかったっけ。まだまだ電車あるんじゃないの」 「兄さんがさ、0時までには帰ってこいって」 「シンデレラみたいだ」 「いくら僕がかわいいって言っても僕は男だしプリンセスじゃないのにさー」 否定されるかと思って言ったことがそのまま受け止められてしまって、つい笑いが。かわいいのがキャラ作りなのか素なのかがたまにわからなくなる。たまに意外と素直なところがトド松くんで、たまに起きるこういう予想外な反応が面白い。環境もまったく異なる、ニートの彼と社会人の僕の付き合いが切れることなく続いていく理由は、きっとそういうところにあるのだと思う。 「ちょっとー、なんでそんなに笑うの」 「そうやって自分で言うところがトド松くんは……まあいいけど。それにしてもお兄さんも過保護だね」 「あ、そうじゃなくて。兄さん働いてるから、遅くに帰ってシャワー浴びたりするの、うるさいって怒られるんだ」 「あー」 言われて気付く、一人っ子であり一人暮らし歴も長い僕にはない視点だった。 人と暮らすことの大変さみたいなものを聞くたび、彼女は作っても結婚にはまだ早いなあと思う。僕はきっと、誰かの都合に合わせて生活できるほどに、大人ではない。 こうして気負うことなく相手に気を使えるトド松くんみたいな人が、案外あっさり同棲や結婚をして幸せに暮らしていくのかもしれない、と思えた。 「ねえ」 「なあに」 「トド松くんって早いうちに幸せな結婚しそうだよね」 「あつしくん、僕のこと馬鹿にしてる?」 思ったまま口に出た言葉だったがトド松くんのお気には召さなかったようだった。不満げに唇をとがらせて帰りの荷物をまとめ始めたトド松くんに、急いで謝り、フォローを入れる。機嫌を損ねたままの解散ではばつが悪い。 「まあまあ。ぴったりくる相手が見つかったらトントン拍子に結婚して幸せになるタイプだと思うけど」 「あのさ、僕、ニートで童貞なんだけど」 あつしくん一軍のくせにそういうこと言うの嫌味に聞こえるからやめなよ、と言ってトド松くんが店員を呼ぶ。その横顔はいつもと変わらなくて、あの時くっきりとついていた目元の痣はもうすっかり、きれいに消えている。 「シンデレラのトド松くんはいつかお城から招待状が来て素敵な王子様と出会うのかなあ」 「じゃあかわいい女の子が来る合コン誘ってよね、魔法使いさん」 「……就職したらな」 「またそうやって僕を呼んでくれないんだ」 「ニートがそう簡単に彼女作れると思うなって。家出たんだし、そろそろ就活しろ」 「あ、でも僕ちょうどいま面接受けてるんだよねー。次会うときは働いてるかも。だからさ、セッティングよろしく」 「そういうとこ、意外とフットワーク軽いよね、トド松くんって」 「えへへ。そんじゃまたね、ありがと、あつしくん」 「0時までに帰れよ、シンデレラ。じゃあな」 トド松くんが開けたドアの前では外の空気が交じり合う。夏の夜でもじめっとした空気が頬を撫でていく。背中越しに振り向いて、小さく手を振るトド松くんに手を振り返す。次会ったときにまだニートを続けているようなら冷やかしてやろう――なんて思いながら見送った背中はどこまでもいつも通りで、またいつでもすぐに会えるのだと疑わなかった。 その数日後から、トド松くんに送ったメッセージに既読がつかなくなった。 今時はメールや電話みたいな連絡先を交換しなくたって友達と連絡を取る方法なんていくらでもあって、だからトド松くんと僕のやりとりもラインが主、とりたてて連絡先を交換してはいなかった。さりとてラインが通じない今となっては、僕はガラスの靴を見つけられないままだ。 あれから、もうすぐ三ヶ月が経つ。 ========== 僕たちはあの日のことを決して忘れることはないだろう。 チョロ松兄さんが就職して家を出て行ったあの日、僕はおそ松兄さんと喧嘩をした。負けると知っていた喧嘩。腫れて熱を持ったまぶたに当てる氷嚢は冷たくて、じんじんと痛かった。チョロ松兄さんがいなくなって広くなった布団で、おそ松兄さんに背を向けて寝た。三日間、おそ松兄さんは僕に話しかけてはこなかったし僕からおそ松兄さんに話すこともなく、夜になれば僕はカラ松兄さんの顔を眺めながら眠った。そうして迎えた四日目の朝、僕は三人の兄に見送られ、キャリーバッグに詰め込んだ荷物だけ持って、家を出た。おそ松兄さんは見送りに来てくれなかった。 僕がボロアパートで一人暮らしを始めるようになってひとつ意外だったのは、兄たちも父さん母さんも、僕の生活に干渉してこなかったことだ。チョロ松兄さんと違って定職についているわけでもない、怖がりで臆病者の僕が一人暮らしなんてできっこない、すぐ終わるって思ったのかもしれない。実際、寂しくてたまらなくて家の様子を見に行ったこともあった。 ただ一度だけ、一松兄さんと十四松兄さんが僕のアパートに来たことがあった。二人はチョロ松兄さんが家を出てから人が変わったように塞ぎこんでいるおそ松兄さんの様子を憂いているようだった。僕が一人暮らしを始めた直後に続いて家を出たカラ松兄さんのところにも行って話したみたいで、いま兄さんたちは、戻ってきたカラ松兄さんを含めた四人で過ごしているらしい。 他愛無い近況報告をしたあと、帰ってこないの、と聞かれた。 「帰らないよ。僕たちは一緒にいないほうがいいって、今でも思ってるから」 聞いてきた一松兄さんも僕の返事をなんとなくわかっていたみたいで、粘るでも説得するでもなく「そう」と一言だけ返した。 長期で働ける仕事を探しながら、日雇いのバイトで食いつなぐ日々。ボロアパートでの夜は不気味で、トイレに続く廊下は真っ暗闇のなか、自分ひとりぶんの足音がひたひたと妙に響いた。一人で眠る煎餅布団は夏なのに背中のあたりがひやりと冷たく感じられた。壁を隔てて隣人の寝息が聞こえてくるような錯覚に陥る。ひとりなのだということを、夜を迎えるたびにまざまざと感じさせられた。 日銭を稼いで生きるための食事をして、宵越しの金は持てない。ニートだった僕にとってはほぼ毎日働くだけで大変なことをしていると思うけれど、大変だからといって余裕のある生活ができるわけじゃない。生きることは楽じゃないし、生活と賃金には格差があるのだと、はじめて、身を持って知った。 一人暮らしの寂しさも厳しさも覚悟していたつもりだった。覚悟していた上で、寂しくて、厳しかった。兄たちは帰ってきてもいいと言ってくれているけれども、それでも僕は腹を決めておそ松兄さんと喧嘩をして、僕たちは一緒にいない方がいいなんて言って出てきた以上、あの家に帰るわけにはいかない。 「僕のところ、来る?」 チョロ松兄さんの言葉を思い出した。あんなにしょうもない兄たちだけれど、僕が困ったときにはいつだって兄さんたちの声が聞こえてくる。兄の中ではそこそこきちんとした性格のチョロ松兄さんに僕は頼る機会が多くて、だからあの時、手を差し伸べてくれたチョロ松兄さんの声にひどく安心したのを覚えている。 引っ越しのときに住所は聞いていた。借り上げ社宅としてあてがわれた部屋は一人暮らしには少しだけ広めで、たいした荷物も持っていかなかったチョロ松兄さんが、その広さを持て余していることも。 荷物を詰め込んだキャリーバッグを右手に、短かった一人暮らしに終わりを告げてボロアパートを後にする。各駅停車に揺られて二駅、着いた駅からさらに歩いて十五分。やや古いものの綺麗にリフォームされて落ち着いた外観のアパート、その一室。震える指先で鳴らしたインターホンの向こうから聞こえる声が懐かしくて、つんと鼻の奥が痛む。 「どうしたの」 「ここに置いてもらえないかな」 チョロ松兄さんは、僕がまとめてきた荷物をちらりと見て溜息をついただけで、それ以上深く尋ねてこなかった。 「……来ても良いとは言ったけど、ずっとは置かないからね」 チョロ松兄さんはなんだかんだ文句は言うけれど、僕に甘い。 「チョロ松兄さんって、優しいよね」 くすくすと笑ってそう言えばチョロ松兄さんは呆れたようにはいはいと流したけれど、それはいわゆる照れ隠しのようにも見えた。 ◆ 末っ子で甘え上手のトド松。兄として頼られることは多かったものの、大人になってからはあの減らず口のせいで、僕たちの間には小さな喧嘩が絶えなかった。転がり込んだ負い目からか最初はやや肩身が狭そうに過ごしていたけれど、生活に慣れるにつれ、実家にいたころのような口喧嘩もぽつぽつと起こるようになっていた。 けれどあのころとはもう違う。これまでずっと対等だった立場が、いまは変わった。 「お前と違って僕は働いてるんだよ。馬鹿にするな」 生意気な口をきいてきた時には、これを言えば確実にあいつを黙らせることができた。イライラするととりわけ、働いてないくせに、という言葉がよく出るようになった。生意気な口ばかりきく、僕をばかにしてばかりだったあいつを言い負かすたたびに少しだけ気分がすっとするのを感じていた。そんな自分は、傍からどう見えるのだろう。ふとのぞいた鏡の向こうには自分がこちらを見つめていて、そうして情けない姿から目を逸らした。 「そうやってお前は相変わらずスマホで遊ぶか友達と会ってばかりで、働く気なんてないんだろ」 事あるごとに就職していないことを責めて、何度も何度もニートと罵った。 働いている自分に、トド松よりも確実に上の立場にいられることに安心していた。 なのに。 「僕、あしたからここで働くことになったんだ」 父さんからの仕事の紹介を受けたあの日、理想を追い求め続けた就活中にずっと持っていた求人誌を捨てた。理想なんてそう簡単に見つからないことを知って、身の丈に合った仕事を得ることを決めた。6人の中で誰よりもまっとうであることを認めてもらうため、社会人の肩書が欲しかった。現実を見ることで父さんも母さんも喜んで、僕はようやく社会に受け入れられたのだと誇らしい気持ちになった。 そうして僕が捨てた求人誌の中からバイトとはいえあっさりと仕事を見つけてきて「明日から働くから」なんて、トド松はそれがまるであたりまえみたいに言う。 捨てた理想を知らないうちに拾い上げて、僕がついぞ手に入れられなかったものを簡単に手に入れて。心のどこか奥底に捨てきれなかった思い、ほんとうはたしかに望んでいたのに手に入れられなかった理想、そのすべてをそのまま持って行ってしまうような気がした。そんな、要領が良くてできのいい弟に、どうしようもなく苛立っていた。 「あそこのバイトの人間関係は評判が悪いから、やめとけって」 「僕ならうまくやれる」 「また大学生って嘘でもつくのか。そうじゃなきゃお前のことなんて誰も構わないもんな。からっぽでダメな、なにもないお前のことなんて」 「バカにしないでよ」 きっ、と睨みつけてくる。小馬鹿にしたような薄ら笑いが消えた。 ああ、いまこいつは僕に本気で怒ってる。 「チョロ松兄さんはもうちゃんと就職できたのに、なんで僕の邪魔をするの。働けニートってずっと言ってたでしょ」 トド松はあからさまに困惑していた。僕の言い分が理解できないという顔をしている。 口の減らないドライモンスター、兄弟になんて関心なさそうな態度のくせに、なんだかんだと一緒にいて、僕たち兄弟と離れようとはしなかった。素を見せているようで本心を隠すのが上手で、掴みどころがなくて腹立たしかった。 なあ、トド松、僕はずっとお前の気持ちが、考えが、わからなかったんだ。だから泣いたり怒ったり、本気の感情を見せるお前を見ると、僕は――安心する。 「お前にはなにもわからないよ、からっぽのドライモンスター」 生意気で理解不能な末弟が、本当になにもできないかわいい末っ子になるまで、言い聞かせるだけ。 比較的まともな感覚を持っているくせに、兄弟に引きずられるところ。人の持っているものをすぐ欲しがるところ。他人に合わせて気に入られるために平気で心にもないことを言えるところ。兄だからこそ弟のことはよく知っている。流されやすい子だとよく知っていた。生意気な口を利きこそすれ、確かに兄として自分のことを信頼していることも。 「なあ、トド松、お前にはなにもできないよ」 その言葉たちは遅効性の毒になって、じわりじわり、トド松の体に回っていく。 次の日の朝、トド松のスマホからSIMカードを抜き取って、ふたつに折って破壊した。 新着メッセージの通知音は、もう鳴ることはない。 ========== その首筋に残る浅黒い痣は、僕の手と同じ形をしていた。 ひゅう、とその喉から息が細く抜けていく。 重ねた両手に体重をかけるたび、組み敷いた弟の体がびくりと跳ねる。 首に残った痣を隠すみたいに、僕の手はそのままトド松の首の痣を覆うように置かれている。 トド松が白目を剥いて、意識が落ちる寸前まできたことを感じた。頃合いを見て手を離すと、その瞬間急速に開けた気道に呼吸が追いつかず、トド松が苦しそうにむせて咳き込んでいた。 ぜえぜえと荒い呼吸をするのは僕の方も同じだ。力を込めていた腕がもう限界とばかりにぶるぶると震える。握りこぶしを作ってみたけれど手の握力はしばらく使い物になりそうになかった。 こうして首を絞めることさえ日常になっていた。 どこまで、どのくらいの力なら命に関わらない範囲で絞められるのか、そういうものはもはや感覚としてこの両腕に染み付いている。 ただ、あの日だけは違っていた。 ぎりぎりと絞めている両手はいつも通り、トド松の呼吸を奪っていた。苦しそうな呻き声が喉から絞り出すように聞こえてくる。 「いやだ、たすけて……」 意識が朦朧とし始めたのか、うわ言のように助けを求める声をあげていた。 「たすけて、たすけて、にいさん」 トド松の目の焦点があわなくなる。苦悶の表情に、頃合いかと手を離しかけた瞬間。 「たすけて、おそ松兄さん」 その喉から小さく漏れた声。呼ばれたその名前に、ぎくりとする。 「なあ、助けてほしいのか、あいつに」 あいつみたいな兄になれなかった僕から、助けてと。 「あいつの名前を呼ぶな」 思わずカッとなって手を離すことを忘れて、力を込めた。思考が赤に染まる。 やりすぎた、と気づいた。 その瞬間、トド松の体が硬直して、すぐに糸が切れたように力が抜けていく。 「あ……トド松?」 そのままぐったりとして動かないトド松の体を何度も揺さぶる。 「おい、トド松、起きろ」 力加減を間違えた自覚はあった。だけれどもいつもは平気なのに、これだけのことで。もしかして、という不安が生まれる。 「トド松、起きろ、ごめんやりすぎた。……嘘だろ、起きろ、トド松」 いくら揺すってもトド松は動く様子がない。そっと首筋に添えた手から伝わる脈拍はいつもよりずっと弱くて、そのまま触っているとすっと消え入るように見失ってしまった。 その様子に焦って首筋、腕、手首からも脈拍を探したけれども、うまく見つけられない。 肉体が急速に熱を失っていく。トド松のゆびさきが冷たくなっていく。 もしかして、僕、トド松を、 ◆ ベッドの上、汗だくで目が覚めた。体のほうはすっかり冷えていて、汗だけがびっしょりとパジャマを湿らせていて気持ち悪い。はっとして隣で眠るトド松にすがりつく。口元に耳を寄せればすうすうと穏やかに呼吸をしていることに気がついて、緊張からようやく開放される。 僕の手の形と同じ痣だけがそこに残っている。その首に、今度は優しく手を添える。あたたかな脈拍が感じられて、確かにトド松は生きているのだと安心した。 「……よかった」 ひどい悪夢だった。 ふう、と息を吐いて、時間を確認する。朝4時。夜明けの空が白んで、その明るさがほのかに部屋を照らしていた。正面に仕事用のスーツの輪郭がぼんやりと浮かぶ。その隣のハンガーにはネクタイ、緑色とピンクの二色が並んで掛かっている。 まだ起きるには早い時間だ。出勤するまでの時間でも、十分寝直せるほど。 穏やかな顔で寝ているトド松の頭をそっと撫でた。トド松のうさぎパジャマについている長い耳が揺れる。 元の家で六人並んで眠っていたころのことを思い出した。騒ぐ兄弟たちをおとなしくさせて布団に入れ、やっと寝付いたと思ったころに、トド松にトイレについてくるよう叩き起こされて。びびりの弟がびくりと震えるたびにあのパジャマの耳が揺れて、妙におかしくて笑ってしまったことを思い出した。 「僕たち、まっとうに、幸せになりたかっただけなのにな」 どこで行き違ったんだろう、とひとり呟いたとき、思わず涙がこぼれそうになった。 ========== 例えば、ハーブを食べて育った豚、みたいな。良いもの食べて育った動物の肉って言われると、なんとなくだけどうまそうに思えるよね。本当にうまいか、って言われるとよくわかんないけど、なんとなくうまいような気がする。なあ、トド松はどう思う? もし人間も良いもの食べてたらうまいのかな――なんてな。はは、別に本当に食うことなんて考えてないから、そんな顔すんなよ。僕には人間を食べる趣味はない。ましてや兄弟だしね、僕たち。 しかし、兄弟で同じもの食べて育ったはずなのにどうしてお前はそんななんだろうな。うそつきで、ずる賢くて、自分のことはかわいいくせに、他の人のことはたとえ家族であろうと何とも思ってなくてさ。ん、そんなことない、って言った? ――どこがだよ、兄弟の僕たちにも嘘をつくくせに、隠し事をするくせに。だからドライモンスターなんだ、人の気持ちがわからない怪物なんだよお前は。 それで、いま僕が言いたいのはさ、僕はお前に「まとも」になってほしいってことなんだ。お前みたいな怪物でも、綺麗なものを食べたらまともな人間になれるかもしれないだろ。僕はお前に人間になってほしいんだよ。嘘なんかつかなくてもいいように。隠し事だってしなくていいように。人の気持ちだって、ちゃんとした人間になったらきっとわかるようになるさ。 ほら、口を開けろ。食べさせてやるよ。 僕がお前を綺麗にしてやる。 ◆ 外はとりわけ暑い日が続いているようだった。部屋の中で右に左に、ゆっくりと首を振る扇風機が静かなプロペラ音を立てて淡々と回る。日差しを避けるように閉じたカーテンが風でゆるくなびいて、その隙間から熱を持った光が床に細く伸びる。窓の外から、アブラゼミの力強い鳴き声が聞こえていた。 少し前に不注意で足の指を折ってしまって以来、僕はチョロ松兄さんの助けなしでは外を出歩くのも困難な身だ。部屋を出てすぐ、このマンションの急勾配の階段を降りるのが大変だったし、痛みを堪えながら長い距離を出歩くのはひどく億劫だった。そういうわけで比較的長いこと、僕は一日の大半をこの部屋の中で過ごしている。怪我をしたのはずいぶん前のこと、春のぬるまった空気が気持ちよかったころの話だ。今年の夏は、あの焦げ付くような太陽をいまだろくに浴びていない。 だから僕が外の空気を吸うのはこの、日課の洗濯干しをする時間くらいのものだった。この家事がずいぶん楽になったことで、怪我もずいぶん癒えたのを実感する。よっ、とベランダに手を伸ばしてまた一着、白いワイシャツを並べて干す。引っ張ってしわをのばすと、陽の光を浴びた純白がまぶしく輝いた。いくつも並ぶそれはチョロ松兄さんの仕事着。均等の幅でベランダに並んで風にたなびくワイシャツを見るたび、スーツを着て働くチョロ松兄さんの毎日を感じることができた。 そして、働けない代わりに家事をして、仕事に行く兄さんの見送りと、帰ってきた時の出迎え。これが今の僕の毎日。 ◆ 昨日のこと。 いつもより少し早めに帰ってきたチョロ松兄さんの機嫌はすこぶる悪かった。乱暴に玄関扉を閉める音、荒い足取りがそれを物語っている。 ただでさえ神経質なところがあるチョロ松兄さんが、さらに苛立っている状態でふたり過ごすのは落ち着かない。ここのところ仕事のことで悩んでいるみたいで、夜に家に帰ってきてすぐはいつもこんな調子だった。「兄さんはいつも頑張ってる」「ちゃんと働いているのすごいと思ってるよ」そうして励まそうとしたのが逆効果だったようで――今日もまた、頬を張り倒された。 不意の暴力にバランスを崩されて倒れ込む。部屋のローテーブルを引き倒してしまって、上に置いてあった小物やマグカップがガチャガチャと大きな音を立ててフローリングの床に散らばる。 その光景を見ながらああ割れたものがなくてよかったなんて考えていて、いつのまにかこうして痛めつけられることに驚かなくなっている自分に気づいた。思考はどこか他人事みたいに、諦めみたいに、落ち着いていた。 「お前の言葉には心が感じられないんだよ。ご機嫌取りなんてできると思うな、薄っぺらいんだよ!」 頬を殴られたときは、ばしん、とそれなりに響く音がすることを最近知った。殴られた後は熱を持つ腫れと共に、ひりつく皮膚の痛みに苛まれることも。 意図しない方向で機嫌を損ねてしまったことを後悔しながら、殴られた時に倒れて巻き込んだテーブルの上の雑貨をひとり片付ける。下敷きにしてへこんでしまったティッシュケースの箱は皺の寄ったまま、いくら撫で付けても元の綺麗な形には戻らなかった。 倒れこんだ拍子に強く打った手首は青く腫れ始めていて、鼓動が鳴るたびにずきずき傷んだ。 ◆ 今日のチョロ松兄さんはやや遅めの時間に、珍しく買い物袋を下げて帰ってきた。僕はちょうどシャワーを浴びたところで、手早くパジャマを着てから戸を開けて、兄さんを出迎える。玄関を閉める音は控えめ、落ち着いた足取り。昨日よりも機嫌は良さそうで、心のどこかでほっとする自分がいた。 「おかえりなさい、チョロ松兄さん。それ、なにか買ってきたの?」 大きめのビニール袋が兄さんの左手でガサガサと音を鳴らす。おみやげだよ、と言って僕に手渡してくれた。チョロ松兄さんが僕にこんなふうになにかを買ってきてくれるなんて一緒に暮らし始めてすぐのころ以来だ。すごく嬉しい気持ちになった。大きさの割に袋は軽い。なんだろう、と中身が気になって、袋の中を覗き込んだ。 次の瞬間。 骨のぶつかり合うにぶい音が、顔の真横で鳴る。 直後に頬に感じる鮮烈な痛み。衝撃に脳が揺れてくらくら眩暈がする。世界がぐるぐると回る。立っていられなくなって座りこんだ拍子に昨日痛めた右手首をついてしまい、焼けるような激痛に視界が真っ白になる。僕のことを、チョロ松兄さんが右手を握りしめて見下ろしている。 ああ、どうやら僕はまた、チョロ松兄さんに殴られたようだった。 ◆ はっと目を開けると、部屋の中央に置かれた長方形の小綺麗なローテーブルの前に座っていた。机の上に鍋用の小さなガスコンロがそのまま置かれている。 腰掛けた座椅子の背に腕を回すように後ろでがっちりと僕の両手首が括られていて、身動きが取れない。少しでも動こうとすれば縛り付けられた腕が引っ張られて、腫れ上がった右の手首に鋭い痛みが走る。 正面に見える鏡の向こうには涙ながらに頬をべたつかせた僕、それとチョロ松兄さんの背中が映っていた。チョロ松兄さんが通勤用のかっちりしたスーツを来ているのに僕だけがファンシーなパジャマ姿で、フードから伸びるももいろのうさぎの耳が滑稽に揺れた。 「食べろよ。まだたくさんあるから」 口元に差し出される銀色の長いフォーク。その先には焦げ目のついたマシュマロがとろりと垂れ下がっている。必死で体をよじって拒否しても、何度でもチョロ松兄さんの右手のフォークは、僕の鼻先に甘い純白のお菓子を差し出してくる。見るだけでその甘ったるい砂糖の味を思い出してしまって、胃の奥にいるそれらが喉元に込み上げてくるのを必死でこらえた。 もう数時間ほど経っただろうか。 チョロ松兄さんに、僕はマシュマロを食べさせられ続けている。 食べ終わった後の空袋がいくつか、ゴミ箱に無造作に突っ込まれていた。それでもまだ机にはこの家でいちばん大きな皿の上、僕の口に運ばれるのを待つばかりのマシュマロが山のように盛られている。 「チョロ松兄さん、もう嫌だよ……」 「なに」 「もうやめて……」 「まだ綺麗になってないだろ。そんなにベタベタの顔で、汚ないなお前は」 チョロ松兄さんの細長い人差し指がすっと僕の頬を撫でる。とろけたマシュマロの糖度がチョロ松兄さんの人差し指に絡みついて、うまく滑らない。口元から目の横まで、頬をまっすぐなぞった指は溶けた砂糖で光っていた。ねばつく指先を見て、兄さんは少しだけ眉をひそめる。そうして僕へ向けたその目は、まるで道端のゴミでも見るみたいにひどく冷たくて、背筋がぞくりとする。 「お前の嘘つきで、調子の良いことばかり言うところ。僕はそこが一番良くないと思ってるんだよ」 「ごめん……ごめんなさい」 「口だけは達者。上っ面の謝罪なんていくらでもできるんだろ」 「違う、ごめんなさい、本当にそう思って言ったんだ」 「そんなこと言われても、お前が本当にそう思っていたかどうかなんて僕にはわからないんだよ。気持ちが伝わってこなかったんだから」 「…っ……、じゃあ、どうすれば」 「自分で考えろ、って言ってもお前、きっとわからないんだよな。ドライモンスターだからさ」 「そんなんじゃ……」 「だから。僕がお前をまっとうにしてやる」 がさり。マシュマロの袋をまた一袋開ける。皿の上にまたマシュマロの山が高く築かれる。載りきらなかったいくつかが転がって、皿のふちに向かって落ちていった。 ◆ 次々と口に押し込まれるマシュマロは、もうとっくにうまく飲み込めなくなっていた。口の中のものを飲み込もうとするたび、消化器官がそれを拒否してえづく。数時間かけて食べ続けたマシュマロは胃の中で膨れ上がって、いまの口内と同じように隙間もないほどぎっちりとつめ込まれている感覚になる。これ以上もう入らないと胃が悲鳴を上げる。 ちょろまつにいさん、ごめんなさい、と絞り出した声もマシュマロに遮られ、くぐもって、もごもごという曖昧な音にしかならなかった。パジャマのフードについているうさぎの耳が垂れ下がって、目元を覆って視界を塞ぐ。隙間から見上げたチョロ松兄さんの顔は影になって、よく見えない。 「"chubby bunny”……太ったうさぎ、なんて。よく言ったもんだよね。マシュマロを口に詰め込む遊びがあるんだって、お前知ってた? 僕はこの前はじめて知ったんだけどさ」 問いかけるようでいて答えを期待してはいない会話。僕がまともに喋れる状況にないことなんて一目瞭然なのに、それをわかった上でなお、返事を期待するような話し方をする。苦し紛れに喉の奥で絞り出した声はか細く、うーうーと小さく唸る音にしかならなかった。 「なんだ、まだ喋れるんじゃん。じゃあもう一つだな」 チョロ松兄さんが銀のフォークの先端にマシュマロを一つ串刺しにして、机の上に置いてあるガスコンロのつまみをひねる。とろ火の上にくべられたマシュマロが、じりじりと茶色の焦げ目をつけていく。そうしてほどよく炙られたマシュマロからとろりと垂れ下がる甘い雫を、くるくるとフォークを回して器用にすくい上げた。それを見せつけるように僕の目の前に持ってきたあと、ぐいと無理やり口に押し込まれた。既に口いっぱい詰め込まれたマシュマロたちに喉が圧迫されて思わず身体がそれを吐き出そうとえづく。抑えてきた吐き気が耐え難いものになる。 いよいよ我慢できなくなって、咳き込みながら口の中に残るマシュマロを吐き出した。ぽろぽろと白い塊が口から次々と溢れる。目の奥のほうからあつい涙がこみ上げてきた。 「あーあ。ダメだろ、せっかく食べさせてやったのに」 涙で視界が滲む。げほげほと咳き込んで俯いた先に、よだれまみれでぐちゃぐちゃになったマシュマロが机に散乱していた。 「ちゃんと食べないと綺麗にならないだろ。まだ、まだだ。これはお前に必要なことなんだ」 チョロ松兄さんが、僕が吐き出したマシュマロの塊にフォークを伸ばす。どろどろになったマシュマロの、それでもまだ形を保っていたひとつに、つぷりとその先端を飲みこませて持ち上げる。溶けた砂糖か、それとも僕の唾液だろうか、どちらともつかない白い糸が引いていた。 「まだ食べられるよな。トッティ」 僕は答えられない。 その沈黙を気にする様子もなく、マシュマロがまた口元に差し出される。甘ったるい砂糖の味が思い出されて、胃の中のものがせり上がってくる感覚に襲われる。とろけた表面がぬらぬらと光っていて、ひどくおぞましく見えた。 「僕はお前をここに住まわせてやって、面倒見てやってるんだけど。自覚ある? 足も手も怪我して、ひとりじゃなんにもできないお前が、まっとうに社会に復帰できるように僕がわざわざ助けてやってるんだよ。ほら、口開けろ」 僕は、応えられない。 吐き気がひどい。言われるがままに口を開けたら、またあれを口に入れられたら、次こそ胃の中身まですべて戻してしまいそうな気分。差し出されたその純白から視線を逸らしたまま俯いていると、チョロ松兄さんが深い溜息をついた。 「ねえ。僕はお前のために食べさせてやってるんだよ。わかってる?」 「でも」 「でもじゃない」 頬を張られた。ぱしんと手のひらがぶつかる軽い音、顔の左側がかっと熱くなる。 「お前、このままじゃ家に帰れないって言ってうちに来たんじゃないか。みんながいる家に帰ったってよかったのに、このままじゃダメだってお前が自分で言っていたんだろ。今この状態で帰ったらなにも変わらない。みんなだって頑張ってるのに、いまのお前は仕事もない、心もない、からっぽのいらない末っ子なんだよ。ねえ、誰にも必要とされないお前はあの家にこのまま帰れるのか?」 からっぽ。必要とされない。その言葉で、なにもなし男と言われた合コンの苦い記憶が脳裏に蘇る。 僕には、なにもない。 全員がニートだから気にならなかった、だからごまかして見ないふりしてきた。ひとりだけ変われないことが、なにもできない自分に失望されることが、兄弟それぞれが自立のために努力しはじめた今となっては、ひどく怖かった。 「ごめんなさい。チョロ松兄さん、ごめんなさい。ねえ、嫌いにならないで。この家に置いて。もう嘘つかない、いい子にするから」 チョロ松兄さんはなにも言わない。兄さんがどんな目をしているのか知るのが怖くて、目を合わせることができなくて、うつむいたまま僕はただ繰り返す。 「ごめんなさい、ごめんなさい……」 「食べられるよな。……はい」 差し出されたそのお菓子を、ひとつ、口に含む。 「いい子だ」 「うん、チョロ松兄さん」 吐き出しそうになるそれを無理やりに飲み込めば、大きくてふわふわの塊が喉を通っていくやわらかな感覚が残る。 「これできっとお前の嘘つきだって治るんだ」 「うん」 「苦しい思いさせてごめんな」 「チョロ松兄さんが僕のためにしてくれたことだから」 「わかってくれたんだな。嬉しいよ」 「うん」 夜が更ける。昼間は騒がしかったセミの鳴き声はもう聞こえてこなかった。 静かな部屋の中、扇風機は変わらず静かに風を送り続けている。 ずっと握っていた銀のフォークを手放して、チョロ松兄さんの手が僕の顎に触れる。唇を割り開いて滑りこませたその指先で、僕の舌の上を優しくなぞる。 甘美にとろける砂糖菓子の味がした。
C90発行