とまれの通りゃんせ


僕たちの家があるあたりはいわゆる下町といった風情で、そこそこ都会といえる土地に住んでいるはずなのに都会だなんてとてもじゃないけど言い張れないくらい、ここではのんびりとした暮らしが続いている。八百屋に魚屋の古き良きラインナップが立ち並ぶ、人懐っこい商店街。濁った泥水が緩慢に流れていくドブ川。からすが鳴けばきいきいと揺れるブランコだけが人の気配を残すばかりの、静かな公園。少しばかり都会のふりをした駅前の大通りを抜けてしまえば、そんな子供の頃から変わらないノスタルジックな景色がいまだ残る帰り道。中学生で自転車に乗ったり高校に入れば電車に乗ったり、道が続く行き先は僕たちの成長にあわせて変わっていったけれど、いずれにしても、僕たちが家に帰る道のりは、一番古い記憶である小学生のころから変わらず、最後にはこの道を通るのがおきまりだった。

夜。
赤信号の横断歩道は、誰も通りやしない車道から僕を守らんとばかりに光っている。
元が下町の往来の少ない道、珍しく通りがかった車がたった一台、のんびりと走り去っていく。
その後ろ姿を見送ったら左右を見渡して、後続車が来ないことを確認して渡る。
信号は、赤。
すこしだけわるいことをしている。日常にひそむちいさな反モラル。
誰も見ていないから大丈夫――そういうところが僕のクズなところかもしれない、なんて自覚が多少はある。車だけじゃなくて他に誰もいないことまで確認した。周到な醜行。
なんてインスタントな自己嫌悪に浸っていたら、見逃していたらしい。
「あ」
誰もいないと思っていた反対側の歩道から、同じように信号無視で渡ってくる人影。
そこには見慣れた顔、僕と瓜二つの顔がそこにあった。赤信号に照らされて少しだけ色濃く映ったパーカー、それはよく知ったピンク色をしていた。

「チョロ松兄さん」
「トッティ」

信号無視の横断歩道で出会った、わるものふたり。
赤い光が悪事を照らす。

「赤信号だよ」
「チョロ松兄さんこそ」
「てか危ないからスマホ見ながら歩くなっつったろ」
「ちゃんと車が来ないか確認したよ」
「そんなこと言って、お前いつか事故るよそれ」
「……あーもう。相変わらず口うるさいよね」
「は?人がせっかく心配してやってるのにその態度って……。お前って本当に人の心がないよな」
「自分だって信号無視してるくせに常識人ぶらないでよね。知ってるんだよ、人に見られてるときだけ真面目なポーズするくせに誰も見てないってなったらこれだもんね、ライジングシコスキー兄さんはさ」
「お前、っ」
無意識のまま自分の口から舌打ちが漏れたのを、意識はどこか遠くにあるまま聞いていた。
思わず手が出そうになったところで、はいはい降参と薄く笑った末弟が両手を挙げていた。
「やめてよ〜、いつもの兄弟喧嘩だって言ってもこんなところで手出されても困るし。僕も言い過ぎちゃったし、ごめんごめん。じゃあね、チョロ松兄さん」
「……こんな時間にどこ行くんだよ」
「どこでもいいでしょ」

目を合わせようともせず、面倒を切り上げたいとばかりの投げやりな物言い。
たったそれだけ言い残して、トド松は行ってしまった。

◆

行き先を僕に教えてくれるつもりはなかったようだけど、服装から察するに合コンか何か人と会う用事でもあるんだろうと思った。いつものパーカーじゃなくて、よそ行きのおしゃれ着。外面ばかり良く、時には嘘までついて、さして仲良くもない人間とふらふらと遊び歩く末っ子のことは理解し難くて、なぜか無性に癇に障る。
子供みたいだ、と思う。このままずっと暮らせるはずないんだから、ちゃんと就活して堅実な就職先を見つけて、自力で生活していく準備を少しずつしなきゃいけないって僕は考えている。だから兄弟たちが就職する気もろくに見せず怠惰に暮らしているのを見ると焦りが生まれてくる。
このままじゃいけないから、前に進まなきゃいけないのに。
前に進むんだ、って、決めたのに。
僕たちダメな六つ子を脱するためには、まずは僕がしっかりしなきゃいけない。

でも。
本当は気づいている。現実の僕の姿。
ハロワに行っては追い返されて、握手会で憧れの女の子と話せるたった二十秒を待ちわびる日々。
僕の毎日はこんなはずじゃなくて、なりたかった僕の未来はきっとこんな僕じゃなかった。

ずっとこのまま暮らしたい、と何の臆面もなく言い切ったおそ松兄さんとトド松のことを思い出した。ライジングシコスキーとかいう意味のわからない名前(おそ松兄さんの小学生並のネーミングセンスがこういうときは憎たらしい)をさっきトド松に呼ばれたせいだ。毎日楽しそうに遊んでは寝て、好きなことだけやって過ごして、この生活から抜けだそうとする僕の就活を呆れたように見ている。このままずっとなんて無理なこと、二人だってちゃんと知っているはずなのに。
そういえばおそ松兄さんが前に進むのをやめたのはいつだったろうか。どんな時も五人の前にいて先頭切っていたずらに励んでいた悪ガキだったころのおそ松兄さんが、今こうして毎日変わり映えしない退屈なニート暮らしを満喫するようになるなんて、あの頃からしたら想像もつかなかったと思う。いつだって楽しいことばかり求めているおそ松兄さんの性格は小学生の時分からまったく変わっていないように見えて、より楽しいなにかを追いかけることをやめてしまったように感じられる。
僕たち六人の中で、なにか新しいことを始めるのはいつだっておそ松兄さんだった。おそ松兄さんが思いついたことに僕が付き合わされて、後ろにトド松とカラ松、遅れて一松と十四松。これが僕たちの速度。おそ松兄さんが新しくて楽しいなにかを探しに走りだすたび、僕たちの世界は広がっていった。おそ松兄さんが拓いた世界が僕たち六人の世界になった。そんなおそ松兄さんの背中にみんな惹きつけられて、僕はいちばん近くでおそ松兄さんがいる場所に行けることが、誇らしかった。

だからきっと、僕はおそ松兄さんと一緒に大人になりたかったんだ。

僕が大人になりたい、良い仕事を探したいと思ったとき、おそ松兄さんは変わらず僕と一緒にいてくれると心のどこかで思っていた。けれどもおそ松兄さんは大人になってくれなくて、ずっと子供でいることを取って、そうして兄弟の誰もが動こうとしないまま毎日がどんどん過ぎていって、素直にニートに甘んじることも自分を律してひとり就職することもできずにずっと、宙ぶらりんの僕だけがひとり兄弟から浮いている。

おそ松兄さんが止まっているなら、僕が進まなきゃいけない。家に帰ったらまた、求人誌を読み始めようと決意する。握りしめた紙束の端がくしゃりと歪んだ。

◆

自分を変えるためにはまず環境を変えること、決意はなんの役にも立たない、なんてそこらで聞いたような安い啓発だけれども、僕の決意は何度だってなあなあになって、なにも変わらないダメな六つ子の一員という環境は何も変わらないままだから、案外本質を突いているのかもしれない、なんて思う。
僕がなんとかしなきゃなんて決意は今日もハロワで求人誌を手に取る程度の行動にしかつながらなくて、またいつあの長男と末弟に自意識ライジングなんて囃し立てられるのかと思うと憂鬱だった。はいはいどうせ僕は就職するする詐欺のライジング野郎ですよ、なんて今日も今日とてお手軽な自虐。

夜。
今日も赤信号の横断歩道。往来の少ない道。
珍しく通りがかった車がたった一台、のんびりと走り去っていく。
車が一台だけのんびりと走り去っていって、向こう側の歩道に、人影。
見慣れた顔。同じ顔。
パーカーが赤信号に照らされて、その色はどこまでも深い赤。

赤信号は止まれ。
歩き出せない僕たちは道路を挟んで会話する。

「おそ松兄さん」
「お、チョロ松じゃん」

道路を挟んで向こう側。
にかっと笑って手を振るのはおそ松兄さんだった。

信号の色が変わって、青。
通りゃんせが鳴り響く。ひょいひょいと白線だけを踏んで、飛んで、赤色がやってくる。
僕は歩き出せないまま立ち尽くす。
お前はずるいよ。そうやっていつまでも子供みたいにはしゃいで、楽しそうで。
大人になりたかった僕は思い描いた大人になれなくて、だからこれは子供のわがままなのかもしれない。でも僕はやっぱり、そんなお前と一緒に前に進んでいきたいって、新しい世界を見るときはいつでもお前と一緒にいたいって、今でも思ってるんだ。

信号が何色でも。
いくら僕がひとりで前に進もうとしたところで、赤色はいつだって目の前で笑う。

(一回休み)



2016.4.24 6魂2発行の合同誌「回り双六」の執筆分