さようなら、あの日の僕へ。
色分けされて区別された今でこそピンクの服や小物ばかり身につけているけれど、僕は元々ピンク色が好きというわけじゃなかった。特に嫌いな色というわけでもなかったけれど、女の子のイメージが強い色だし、当時の僕はどちらかといえばもっと派手で目立つ色が好みだった。だから兄弟でそれぞれ色を分けようと決まったとき、長男から順番に自分の色を選んでいって、余り物のように一番最後に残ったピンク色を見て正直げんなりしたことを覚えている。 実際に余り物だったのだ。小学生から性格が成長しないおそ松兄さんはリーダーの色って言ったらこれだろ、って六色並んだ中から迷わず赤のパーカーを手にとった。カラ松兄さんもなんだかんだと痛々しさの片鱗を見せるごたくを並べてはいたけれどもすぐに青に決めていて、チョロ松兄さんは少しだけ迷ったみたいだけれど程なくして緑色を選んだ。あのくらいの時期から少しひねくれた物言いをするようになった一松兄さんは黄色やピンクを着る自分でもイメージしたのだろうか、眉間に皺を寄せながらこれしかないといったふうに紫を。十四松兄さんは残った二色と、それから僕の顔を見比べて、黄色を自分の手元に抱えて、こっちがトド松の、と僕に最後の一着を渡してくれた。 その時から僕の色はピンク色。みんなが選ばなかった最後の色。 兄弟の順番もしっかりするように決めた頃だったからそれは末弟の僕にとっては仕方のないことだったけれど、僕だけは自分の色を自分で選び取ることができなかったこと、そしてその不可抗力の中で与えられた色がこのピンク色だったのだということは、こうして目的もないニート暮らしのおとなに成長した今になっては皮肉な話だと思う。 そう、これはむかしむかし、僕たちがまだ横並びの六人組だったころ、僕がまだ、誰が誰でもおんなじな六分の一だったころのおはなしだ。 ◆ 家を出る時にちゃんと充電しておけばよかった、と思った。 ぶーん、と心もとない振動だけを残して僕の頼れる相棒のバッテリーは切れてしまった。諦めてふうとひとつ息をついて、ポケットにしまい込む。久しぶりに画面から目を離して見上げた夕暮れの空は思ったよりも静謐で。 「兄さんたち、どこー」 ふむ、適当に呼んではみたけれど、返事はない。元から期待していなかったけれど。あの騒々しい五人の兄たちがいたのはどの桜の下だったろうか。 春、暇にあかせて花見としゃれこんだ僕たち六人のニートは、近所の桜並木にレジャーシートと缶ビールを持ち込んで昼間から飲んだくれていた。花見というのも名目上だけで、花より団子というか、とりあえずビールといったところだ。 僕ひとりトイレを探しに出て、ふらふらと酔い覚ましがてら散歩しているうちに戻る場所を見失ってしまった。でもまあ、あんなに騒がしいんだから適当に歩いているうちに見つかるはず。 僕はひとり薄暮の桜並木を歩きながら、昔のことを思い出していた。 ◆ いつだったかははっきりと覚えていないけど初めて色違いのパーカーをもらったのは確か春休みのことで、その休みが明けた新年度の初日、僕たちは色違いのパーカーを制服の下に全員揃いで来て登校した。 僕は自分の色が決まった経緯がこのとおりだし、自分を見分けてもらうためにピンク色の服を着るなんて本当はあんまり気が進まなかった。けれどもいつかの春、桜並木を歩く十四松兄さんが薄紅色の花びらをすくうように手にとって(思えば、買ったばかりのはずなのに十四松兄さんのパーカーの袖はもう長かった)、黄色の袖の上で揺れる薄紅を僕に見せながら「トド松の色だね、きれいだね」と優しく微笑んでくれたとき、少しだけこの色を好きになった。学生時代のことなんてクラスメイトの顔や名前もあんまり覚えていない僕でも、その出来事だけはずっと忘れることなく記憶に刻まれている。 あの日十四松兄さんがしてくれたみたいに、はらはら舞い落ちる薄紅のひとつを手のひらに受け止める。ふうと息を吹きかければまた空に舞って、無数の他の花びらと混じり合っていった。 今日はすこし風が強いみたいで、枝葉がざあざあ鳴る音だけが僕を包み込む。そのざわめきの中に兄さんたちの声が聞こえないのを確かめて、また僕は歩き続ける。 ◆ ピンク色はいつしか僕の愛する色になった。僕だけの色だ。誰でもない松野トド松だけの色。あざとく、かわいく、要領よく。勝負は勝ちを確信できるときだけ。ピンク色は僕の生き方さえ決めた。酸いも甘いも知らなくていい、人生のおいしいところだけ味わっていくのが、末弟、松野トド松らしい生き方だ。 中学生から高校生にかけての僕たちはそれぞれが自分の手にとった色に染まっていった。個性なんてなくて誰が誰でもおんなじな六人でひとつだった小学生の頃の僕たちから、それぞれがひとりの人間として個性を確立していった時期。 いずれにしてもその中学から高校にかけての六年間は濃密な日々だった。いろんなことがあったはずなのに、驚くような早さで過ぎ去っていった。寝て起きては食事をしての繰り返しでだらだら過ごしている今の生活から想像できないほどあの頃の毎日は忙しなく、ただ毎日を生きるので精一杯だった。なんとなくつるむようになったクラスメイトと連れ立って遊びに出たり、うっかり兄のイタズラに嵌められたがために遅刻して先生に叱られたり、その後の休み時間に兄と喧嘩をしたり、隣の席に座った女の子とうまく話せなくて家に帰ってからひとりで反省会をしたり、そんなとりとめもない出来事のひとつひとつが大切でいとおしくて、あの日々はずっと僕の思い出の中できらきらと輝き続けている。ニートとして惰性でやり過ごした一日を積み重ねるほどにその輝きは遠のいて、一方で綺麗な思い出として光を増していくのだ。 なんて。 らしくもないノスタルジー、その理由は自分でもわかっている。 この桜並木は僕たちの通学路、僕たちが六年間をともに過ごした場所だからだ。 蘇る思い出。輝かしい日々。 将来の夢なんてものを一丁前に語る僕たちの目の前に、満開を迎えた桜が咲き誇っていた。世界が開けていた。なんだってできるような気がしてた。なんといっても僕たちは六人、僕たちが僕だ――そう思っていた。 六人のうちの一人じゃなく松野トド松を見てほしいだとか、だからお金も地位もルックスも人並み以上のものが欲しくなったり、外のコミュニティに夢を見てみたり。今の僕がなりたい自分を考えたってそんな俗っぽい欲望しか出てこない。――あの日の僕は、どんな夢を見ていたんだっけ。 なにか忘れ物をしたみたいな気分になって、つい足を止めてしまう。兄さんたちはどこにいるんだろう。 春嵐。 ひときわ強い風が吹く。桜並木がざわめいて花を散らす。 芽吹きの季節を迎えた風は、もう冷たくはない。 乾いた泥の足跡が通学路にてんてんと小さく残って、遠くに聞こえる楽しげな声だけが、今もここであの濃密な日々を過ごしている子供たちがいるのだと教えてくれる。 遠くに見える懐かしい校舎に背を向けて、通学路を逆向きに駆け出す。また強く吹きつけた風に舞い上がる花々に、目の前の景色が眩む。世界はたった一色で満ちていた。 桜、いとしき薄紅色。 僕が愛する僕の色、ここは僕の世界。 あの日、漠然と夢みた大人になれなかった僕をこのまま隠して、なかったことにして。 思い描いたような大人になれなかった僕はずっと子供のまま、この薄紅色の世界に囚われている。 桜に溶けたいと願った。 走り出した足が止まらない。ここまでのんびり歩いてきた道をひたすら駆け戻る。 このまま桜に飲みこまれてしまえば、そこにあの頃の僕がいるような気がした。 息が切れる。あと一歩先、がむしゃらに手を伸ばす、そうしたらきっとすぐそこに―― 「トド松」 ざあ、と風が吹いて巻き上がる花びらが踊って、瞬間、ぐっと手首を引かれる感覚。振り返ってみれば僕の手を引いたのはチョロ松兄さんだった。訝しげな瞳と目が合った。 「何してんの」 「え。あ、チョロ松兄さん」 「トイレ行くには長すぎでしょ。僕、さすがに昼間のトイレにまで付いて行きたくないんだけど」 「……散歩、してた」 「ふーん。もうこれ以外飲み終わっちゃったから帰るよ」 チョロ松兄さんが手に持った缶ビールを見せる、向こうの十四松兄さんの手には空き缶を詰め込んだゴミ袋。 「ねえ、なんで僕がここにいるってわかったの?」 「なんでだろーな、でもわかっちゃったんだよな。お兄ちゃんだからかねえ〜、なんてね」 俺たちはやっぱり六つ子だもんな、とおそ松にいさんが鼻の下をこすって笑う。 桜に溶けようと願った僕を、兄さんたちはあっさりと見つけてしまった。 手を差し伸べた色は僕と違う五つの色で、薄紅色に飲まれてしまいそうだった世界を鮮やかに色づけた。 ◆ なにも変わらないんだよ、って今なら言える。 僕たちが六つ子であることも、僕がその末弟のトド松であることも。それぞれに成長してそれぞれの考え方を持って、僕たちが別個の人間になったとしても、それだけは変わらない。 大人になっても大人になりきれない六人の僕らがただひとつ、大人になって知った、それだけのこと。 「さあ、帰るぞ」 カラ松兄さんが僕を呼ぶ。 最後の一本だぞ、とふたつ手に持った缶を片方投げてよこしてくれた。相変わらず僕に甘い。 「ん、今行く」 小走りで追いついて、横並びで歩く五人の兄と足並みを揃える。 おかえり、とつぶやいた一松兄さんに、うん、とだけ答えて、その隣を歩く。 薄紅色の花びらが、踏み出した一歩の先でふわりと翻る。 さようなら、あの日の僕へ。 永遠じゃないことはわかっている。向き合わなきゃいけなくなった時のつらさも、覚悟しているから。 それでも僕はいま、六人で過ごすこの時間が愛おしいと思う。 だからこのまま続くはずのない毎日を、もう少しだけ楽しませて。 (ふりだしにもどる)
2016.4.24 6魂2発行の合同誌「回り双六」の執筆分