青春の目撃者たち


青春の儚さが好きだ。
いとおしい少年少女たちが、これまでに何人も通り過ぎていった。
彼らがアイドルという憧れに捧げた青春を、わたしたちはステージの上でほんのすこしだけ垣間見ることができる。
アイドル――理想<イデア>であり、偶像<イドラ>。あどけない少年少女たちはそのちいさな背中に似合わないほどたくさんの人に想いを寄せられて、時にはおおよそ人間には難しいような完璧な存在になることを追い求め、そして求められることになる。悩み苦しみ泣いて妬んで、それでも、幕が開けば笑顔でステージに立って歌い踊る。ショービジネスとしてきらきらしく彩られたステージの上で、残酷なほどリアルな今を生きる彼らのそれを、とっくに通り過ぎてしまったわたしたちは青春と呼ぶ。普通なら不用意に他者の目が触れることのできないそれに、しかし、彼らがアイドルとして生きる間だけは許されている、そんな罪深い覗き見だ。
――なんて、真面目ぶってても仕方ないか。
ふう、と深く息を吐いた。スマホに目をやって、新しく現れた通知のポップアップに触れる。
『ゲネプロ終わりました! 明日の本番がすっごく楽しみ』なんて、笑顔の絵文字がついたかわいいメッセージと共に、唯くんの撮った無邪気な写真がアップされていた。楽屋とおぼしき室内を背景に、慧斗くんの黒いネイル、瑞稀くんのおやつ、大也くんの予備メガネ、星空くんのあどけない横顔。それは、いつか終わるきらきらした青春の一幕だ。
唯くんがアップするのはあまりにも普通の写真ばかりであんまり『映え』ないと評判だけど、そのなにげない日常を切り取ったような写真は、まるで唯くんの見ている世界を一緒に見ているようで、わたしにとっては他のどんな写真よりも愛おしくて仕方なかった。
ありふれた少年のような顔で笑う、それでいてアイドルという特別な存在になってこの世界に見出された彼の人生の、ほんの一瞬の青春のきらめき。そのまぶしさにわたしは骨抜きになって、魅せられてしまった。
その思いはわたしが彼のことを『唯くん』なんて呼んでいることにも表れている。彼をそう呼ぶファン、ほんの一握りだ。ほとんどいない。それでもわたしがその名を選んで呼んでいるのは、やっぱり、きみしかいないって思ってるからだ。
普通なようで特別な『唯くん』というアイドルにどうしようもなく惹かれて、虜になってしまって、そんな今が、わたしもとっても楽しくて仕方ない。
明日のライブも楽しみだ。
叶うならば、唯くんが生きている今を、儚い青春を――見届けたい。

◆

新しく投稿された写真のチェックを終えて、そっとスマートフォンを側に置く。
しっかり確かめた、黒いネイルのゆびさき。
ドレッサーに並ぶ色とりどりのネイルポリッシュの中から、彼に贈ったそれと同じ色が詰まった小瓶をこつんとつついた。
――慧斗、あなたにいちばん似合ってる色だよ。
ね、コメントでたくさん褒められてたね。みんな知らないと思うけど、それあたしが贈ったやつだよ。あたしが染めたゆびさきだ。
ざまみろ、とでも言わんばかりの顔で、鏡の向こうであたしと同じ顔の女がひとり微笑んでいた。仄暗い支配欲と渇望を湛えたくらい瞳がこちらを向いている。
いちばん最初は、背が高くて優しそうなところが気になったのがきっかけだった。その次は初めて見に行ったステージの上での、ひときわ目立つそのスタイル。長い手足を使ったしなやかなダンスは、もう一度見てみたいという気にさせられて、何度もステージに足を運ぶうちに、じわりじわりと心惹かれていった。だんだんライブを見ているだけでは収まりがつかなくなって、あなたがどれだけ素敵なのかあなたに伝えたくて、ファンレターを送るようになった。そのうち、手紙だけではなくて、ちょっとした贈り物も添えた。コーヒーショップのプリカ、コスメ、アクセサリー、ブランドの服。あなたにとびきりのものを贈りたかった。
あなたのことが、どんどん好きになっていた。
恋をしていた。
叶わない恋を、していた。
贈り物を受け取ってくれる、身につけて見せてくれる。少しだけあたしだけのものになった気がして嬉しくなる。それでも、どんなに恋い焦がれても、この想いだけは決して叶えてはくれない。アイドルへの想いが叶わないことなんて最初から理解しているつもりだったけど、この気持ちはどうしようもない。
早く楽になりたい、といつも思っている。
慧斗にたくさんのファンがいるのはわかってるけど、他のファンよりもあたしを見ていてほしい。アイドルがファンなんか恋人にするわけないじゃん、って、頭の中のあたしが言ってるけど、そんなの知らない、どうしたってあたしが一番がいい。
おねがい――あたしだけを見てほしいのに。
慧斗に覚えてほしくて買った白のワンピースが壁で揺れている。
鏡の向こうの女はいまにも泣きそうな顔をしていて、ばかみたい、と思った。

◆

うう、ついに来てしまった……。
緊張する。人生で初めてのライブだ。きょろきょろしているのを不審に見られていないか不安になりながら、誘導に従っておとなしく入場列に並ぶ。目の前の大きな施設を見上げた。この中にステージがあって、これからライブが行われるんだ。
仕事のために上京して、都会ではこういうふうにアイドルのライブがすぐ近くでやっていて、チケットさえあれば実際に行けるんだって知ったとき、わたしはとてもびっくりしたのだ。ごく当たり前のことかもしれないけど、地方で生まれ育ったわたしには、そもそもそんな発想がなかった。アイドルに会いに行く発想が。
じゃあ、と。
いつかふとテレビで見てからなんとなく目で追うようになって、そのうち出演番組を録画したり、アイドル雑誌を買ったりネットニュースを見たり、そうして見るたびに元気をもらうようになっていて、じわじわとわたしの生活に侵食していたひとりの男の子。
名前を羽柴大也くんという。
はじめて見に行くなら、あの子がいいと思ったのだ。
――いやあ、本当に行けるんだ、ライブ。アイドル、いるんだ。
現実味のない話だと思ったけれど、整列した目の前には、ばっちり慧斗くんのグッズを敷き詰めたカバンがあった。缶バッジの慧斗くんと目が合って、つい逸らしてしまう。代わりにその持ち主に目をやれば、そこには白一色のお洋服、ヘアメイクに白のリボンを編み込んで、慧斗くんカラーに身を包んだとてもかわいらしい女の子がいた。その完璧な出で立ちに、自分と比較してしまってつい現実を再確認するはめになる。頭が回ってなかったけど、ライブ用のグッズって入場前に並べば買えたんだな。ペンライトだけ握りしめて来た自分が場違いな気がしてきて、また不安になってしまう。
そうして座席につくまで不安だらけの初ライブ参加だったけど、わたしの不安なんてものは、はなにもかも、ライブが始まるまでの話でしかなかった。
はじまりの合図のオーバーチュアが終わったら、メンバー紹介の動画が巨大なスクリーンに流れ出す。どんどこ鳴り響く音の波の中、ステージに元気よく走り出すきらめきを見た。
――うわ、ほ、ほんものだ。
テレビと違って遠く小さな姿だけれど、わかる。
あれ、大也くんだ!
すごいすごい、と思ってるうちに最初の曲が流れ出してきて、スポットライトが順番にメンバーに当たっていって、頭と目が追いつかずにごちゃごちゃしてくる。でもあそこにいるんだ、大也くんがいるんだ。いままで大也くんを見てきたどんなメディアでも全然かなわない、わたしのこれまでの全部をぶっとばしてしまうくらい、『そこにいる』って、すごいことだった。
大也くんの一挙一動が見える。ダンスで鳴る足音も、息遣いまで聞こえるマイク越しの歌声も、すべてに存在感がある。曲の合間には喋って、お水を飲んでる。あの子たちってちゃんと生きてるんだ、人間なんだ。アイドルってかみさまみたいな、なんか遠くの存在だと思ってたのに――ううん、かみさまだけど、ここにいるんだ。
それを理解したとき、勝手に涙が溢れてきてとまらなかった。
これまでずっと遠くで応援してきた大也くんが、同じ空間、同じ時間に存在している奇跡に、とてつもない喜びを感じた。
大也くん、と。声に出して、彼の名前を呼んだ。もうひとつ、今度はもっと大きく。その声は彼に向けられた大きな歓声のひとつになって溶けていくけれど、それでよかった。いつの間にか涙でぐちゃぐちゃになりながら、それでも大也くんを呼んだ。何度も、何度も。わたしは大也くんを呼んだ。
大也くん。
いまここで、きみに会えてよかった。

◆

隣の席で、涙を乱暴にごしごしと袖で拭って、それでも溢れ続ける涙を頬にこぼしながらステージを見つめ続けているひとがいた。ハンカチも持たず緑色のペンライト一本だけを手にしてただ大也くんの名前を呼んでいる。
その気持ちは痛いほどわかる。
でも、わたしも他人のことばかり気にしているわけにはいかない。大也くんのソロが終わって、そうしたらきっと次は――うん。気持ちを切り替えて前に向き直る。
――瑞稀。わたしの愛するアイドルがそこにいる。
スポットライトに照らされて、ひとりのうつくしい少年が、この世のすべてを魅了するみたいに悠然とステージの中央に立っていた。
しんとした会場を見渡した瑞稀は、その世界一かっこいい顔で――ふ、と微笑んだ。
「今日も、きみの特別になりたい」
耐えきれず溢れ出したように沸く歓声と同時に、ミュージックが流れる。それは、瑞稀だけが歌えるとっておきのソロ。イントロのリズムに合わせて瑞稀がステップを踏んで舞い踊る。その姿は、舞踏会で踊る王子様のようにも映った。
彼はいま、たったひとりでステージに立っている。この広々としたステージをひとりで埋めるなんて、そうたやすいことではないはずなのに、それでも瑞稀はたったひとりで圧倒的な存在感を放っていた。
特別、と――たびたび、瑞稀はそう言う。まるでアイドルになるために生まれて、運命的にこのステージに上がってきたような、完成されたこの少年が。
言われなくたって、初めて見たときから瑞稀は特別だった。端正に整った容姿が目を引くだけでなく、えもいわれぬ存在感があって、どんなに人がたくさんいる場所でも彼は一目で見つけられる。むしろ、視線が吸い込まれるみたいに彼を見つけてしまうのだ。誰もが彼にくぎづけになったところで披露されるのは、努力に裏打ちされた真摯で正確なパフォーマンス。歌も踊りも華がある。なにより、見るものを勇気づける言葉と誰もが恋する笑顔はまさに王子様、理想のアイドルだ。
どこからどう見ても完璧な瑞稀。
でも――わたしは、怖かった。
こんな奇跡、少しでも目を離したら消えてしまいそうで。
だってこれを作り上げているのは、たったひとりの、十七歳の少年なのだ。
『瑞稀』は、わたしたちファンがまなざすステージの上でだけで生きる偶像だ。あまりにも儚い、泡沫のように消えゆく青春のひとかけら。
わたしたちファンは、ステージの外で生きる彼を知るすべはない。十七歳の少年はきっとわたしたちの知らないところでたくさん泣いて怒って、時には悩んで苦しんで、そうしてステージの上で完璧になるための努力をするのだろう。でもわたしにとっては、ステージの上の偶像<アイドル>だけが、かみさまだ。そしてアイドルを信仰とするならば、かみさまの正体を侵すことは禁忌なのだ。わたしが知っているのは、求めているのは――恋しているのは、あのステージの上で十七歳の中野瑞稀というひとりの少年が、その青春のすべてをかけて作り上げた、至高のアイドル『瑞稀』。ただそれだけだ。
今日も瑞稀はこのステージで歌っている。いつもどおり完璧で魅力的なパフォーマンス。たった数分間の曲が永遠にも感じられる恍惚。終わりが近づいてくるのが惜しくて仕方ない。
終わらないでほしい、と素直に思う。
叶うならばずっとそこにいてほしいけれど、それが無理な願いだということはわかっている。いつか駆け抜けていってしまう少年の青春、永遠を願わずにはいられない刹那の奇跡。ステージで生まれて、精一杯生きて、いつかはステージを降りていく。そんなアイドルのことを、それでもわたしは、愛してしまったのだから。
本当にありがとう、瑞稀。わたしの大好きなアイドル。
今日も最後のワンフレーズまで完璧なきみに、歓声と拍手を。

◆

『ちゃんと見えてるよ』って。
ライブのたびに、絶対に後ろの席にも向けて言ってくれる。指差して、手を振って、そのまなざしを――その愛を、会場のすみずみにまで届けようとしてくれる。
そういうところが、すごく好きだ。
いつも席運が悪いわたしがこうしてめげずに現場に足を運べているのは、星空くんのその言葉に支えられてきたおかげかもしれない。
でも今日は違う。今日は戦だ。気合が入るあまり、頭の中で法螺貝の音が鳴り響いているような気さえしてくる、そんな大一番だ。
隣で嬉しそうに笑っている唯純くん推しの同僚は、どういうわけか、チケットを取ればことごとく良席を引き当てる力を持っている。あまりの悪運にいよいよ心が折れかけていたわたしが頼み込んだところ、今回もばっちり通路前を引き当てて、ここにわたしを連れてきてくれた。
通路前。つまりトロッコが通る場所。このライブ会場でおそらくトロッコに乗るならこの曲だ――最後の、アンコールの一曲。この通路を、目の前を、彼らが通り過ぎる……かもしれない、ということだ。開幕前でも推しのソロ前でもなく、照明の落ちたステージに向かってアンコールを叫ぶこの瞬間にこんなにドキドキが止まらないなんて、これまで幾度のライブに参加してきた中でも史上初だ。
緊張と疲労で震え出した右腕をそれでも振り上げて、オレンジ色のサイリウムを高く掲げる。もし見ているとしたら、星空くんの場所からも、よく見えるように。
右手にはサイリウム、左手にはうちわ。万が一にでも星空くんが近くに来た時のために、はじめて自作した。うちわの『星空くん みつけた』って書いた方を正面に向けたことを確かめてしっかり握る。さあこれで準備は万端、どこからでも来い! そのとき、ステージにふたたび眩しい照明が光り、本日最後の舞台に向かって、五人のいとおしいアイドルたちが元気よく飛び出してきた。
「一番うしろも、右も左も、上も! みーんな、ちゃんと見えてるからね!」
アンコールの声を受けて飛び出してきたTシャツ姿の天使が、こぼれるような笑顔で、大きく大きく、わたしたちに呼びかける。そういうところが、ほんとうにほんとうに、だいすきなんだ。
予想通り彼らは別れてトロッコに乗り込んで、通路の観客に向かって手を振りながらゆっくりと進んでいく。歌はいつもの、みんな大好きなやつ。コールアンドレスポンスがどんどん決まって、会場の盛り上がりも最高潮。
――でも。そんなことより。うわ、どうしよう、本当に星空くんが、あの星空くんが、わたしの目の前に来るかもしれない。隣の同僚も気づいたのか、肘でこつんとこづいてきたけれど、もう反応する余裕なんてぜんぜんない。でも同僚までそうするってことはこれはやっぱり現実なんだと思うしかない。ああ、かつてない事態。近いってこんな奇跡なんだ。近くを通るだけかもしれない、背中向きかもしれない。怖い、見つからなくてもいい、見つけてほしい、矛盾した気持ちが頭の中をぐるぐると高速で巡っていく。そうしている間にもゆっくりとトロッコは近づいてきて、思わずうちわを胸にぎゅっと抱きしめる。
ああ――せいら、くん!
それはスローモーションで過ぎていく、わずか数秒間の出来事だった。通り抜けていく天使は可憐で、美しくて、笑顔に胸がいっぱいになって涙が出そうになったけれど、わずかでも見逃すまいと思ってぐっと目を見開く。
その瞬間、世界はわたしと星空くんだけだった。
わたしをゆびさして。
ぼくもみつけたよ、って。
星空くんが笑ってくれた気がした。