薄明を追いかけて
これが、兄ちゃんと瑞稀くんが仕事帰りに行ったとされる喫茶店のタピオカミルクティー。
……の、スモールサイズ。
青空にからりとした快晴が広がる、お出かけするには絶好の夏の日。爽やかな暑さに、喉をうるおす冷たいミルクティーがとてもおいしい。タピオカはもちもちしていておなかにたまりそうだ。
瑞稀くんは大きなサイズもぺろりと飲み干したらしいけれど、兄の大也はそのキャラに似合わず意外と(ってファンの人たちから言われているらしい)少食で、その弟である僕も同じく少食の部類だ。兄ちゃんの忠告に従って小さいサイズにして正解だったなと、いくつめかのタピオカを噛み締めながら思う。
慣れない太いストローに苦戦しながらまたひとつタピオカを吸い込んで、もちもちと咀嚼しながら、そっと隣を見た。
「朝日」
僕の名前を呼ぶ、金髪碧眼の美貌の少年。北条星空くん。
いま僕は、星空くんと並んでタピオカミルクティーを飲んでいる。
兄ちゃんを通じて知り合った僕たちは、気まぐれに連絡を取り合っては遊ぶようになった。けれども、実際こうして自分の隣にとんでもない美少年が座っているこの光景はいまだに見慣れない。現実味が薄すぎて頬のひとつもつねりたくなってくる。
とはいえ、こうやってじろじろと相手の顔ばかり見ているのも変な感じなので、手元に視線を落とす。透明なカップの中で、まだ半分くらい残ったタピオカミルクティーがゆらゆらと揺れていた。ちらと隣を見れば、甘いもの好きの星空くんはもうほとんどを飲み干しているようで、おいしかったねとごきげんに笑っていたけれど、ふと、どこか怪訝な顔になって僕に向き直った。
「ねえ朝日。ずっと気になってたんだけど、ぼくたちが遊びに行くところ、いつも大也が前に行った場所じゃない?」
「だって、兄ちゃんが話してるの聞いたら、僕も行ってみたいなって」
「やっぱり! どこかで聞いたことあるお店ばっかりだと思った!」
星空くんはちょっと、いや、かなり不満そうだった。そのちいさな桜色のくちびるを尖らせ、髪と同じ色の金糸の眉を寄せて、僕のシャツの七分袖を軽く引っ張りながらじいっと僕を見ている。
しかしそんな目で見られたって、無い袖は振れない、出ないものは出ないのだ。普通の学生が遊びにいく先なんてろくに知らない僕が唯一知っているのは、兄ちゃんが聞かせてくれるお土産話に出てくるところくらいなんだから。
「むう。せっかく大也に内緒で遊んでるのに、なんか意味ない気がする」
「そうかな」
「そうだよ」
ぷりぷり怒る姿まで綺麗になってしまう星空くん、損なのか得なのかわからないなあなんて考えながらつい見惚れてしまう。そうしたらぼーっとしてるのを見咎められて、さらに機嫌を損ねてしまったみたいだった。
「もう、ぼくは朝日とふたりでやりたいこと、たくさんあるのにな!」
「ごめんってば」
ふん!とわかりやすい仕草でそっぽを向かれた。この天使、意外とすぐ拗ねるのだった。
アイドルとしてきらきらしく振る舞っている姿は、すごく落ち着きがあって大人っぽくて同い歳とは思えなかったのに、こうして日常に戻ってみれば、不思議とちゃんと同級生らしく見えてくる。
「朝日がそういう態度ならぼくにも考えがある。次はぼくの家で遊ぼうよ。ね、朝日?」
「え、せいらくんの……おうち?」
「うん。確かもうすぐ夏休みでしょ。だから、夏休みの宿題合宿ってことで」
学校違っても範囲はだいたい同じだもんね?苦手科目は教えあいっこできるからお得だよね?と、急にぐいぐい来る。すごく楽しそうに星空くんが笑う。いたずら好きの天使の顔。
「どうせならうちに泊まっていってもいいよ。ぼく、家族に聞いてみる」
「それは……僕も親に相談してからだけど、前向きに検討します」
「その言い方は断る時のやつでしょ!ダメだよ、ちゃんと許可もらってきてよね?」
承知しました〜、とふざけて返事したけれど、僕の場合は結構まじめに相談しなければならない。最近はちょっぴりマシになったけど――僕の身体は、あまり丈夫にできていないから。
でも、星空くんの家に一泊、してみたい。とても。
みんながするお泊まりというものを、僕もやってみたいと思っていた。学校さえ休みがちだった僕の身体の弱さはクラス中のみんなが知っていたから、そういう長丁場の遊びに誘われることは今までなかったけれど、初めて遠慮することなく誘ってくれた星空くんの言葉が、実のところ僕はとっても嬉しかった。
「じゃあそういうことで、決まり!」
お互いに許可がもらえたらいつにするか考えよう、ああでも仕事の予定も見ておかなきゃ、朝日の移動時間もあるし遅めの集合でもいいかなあ、などと矢継ぎ早につぶやき、うきうきとした様子で星空くんがスケジュールを確認し始めた。傾き出した太陽のオレンジがかった光が、星空くんの手元の液晶画面に跳ね返る。
僕が残りのタピオカミルクティーを飲み干すまでの間に、お泊まりの計画はどんどん進んでいた。
◆
その日の夜。
家に帰ってすぐ、まずは兄ちゃんに相談してみたら、星空の家なんてまだ俺も行ったことないのに!と、悔しいと羨ましいが半々みたいな声で嘆かれた。いつも優しく穏やかな兄ちゃんの珍しい表情に、星空くんがずっと『大也には内緒だからね』と面白がっていたのはこういうことかもしれない、とすこしだけ納得した。
◆
「すごい……」
ついにお邪魔した星空くんの家。そこには、小さな子供のころから最近の姿まで、さまざまな星空くんがいた。額縁に入れて壁に飾られた、あるいは写真立てに収められている、金髪碧眼の清楚な天使たち。
「キッズモデル時代が長かったから、ぼくが小さいころのものが多くて、ちょっと恥ずかしいんだけどね……」
「こんなにかわいくてきれいで、恥ずかしいことあるの?」
「もう!そういうのやめて、朝日は」
なんだかすぐ怒られるな、僕。
どうも元をたどれば星空くんがきれいすぎるのが原因で怒られている気がするけれど、それを言ったらもっと状況が悪くなりそうだからここはぐっと飲み込んでおく。
「でもさ、やっぱすごいよ、せいらくん」
家族の方にご挨拶を済ませて、少し早い夕食も一緒にいただいて、星空くんの部屋に招いてもらったら、今度はもっと尋常じゃないほどたくさんの星空くんがいた。お泊まりの定番としてアルバムは絶対に見せてもらおうと思っていたけれど、想像以上、さすがの一言だった。
切り抜かれた雑誌のスクラップも、ありふれた日常と成長のアルバムも、どちらの星空くんもとびきり美しくて、自然とため息が出てきてしまう。まぶしい照明やレフ板や立派なカメラがなくても、ただ星空くんが被写体であればどれもすばらしい写真になってしまうのだと、改めてその造形美に感服する。
「両親がね、こういうのマメで。たくさん残してくれてるんだ」
ひと抱えもあるアルバムを見せてくれた星空くんが、ちょっぴり気恥ずかしそうに微笑む。どうやら星空くんの家族は、星空くんのことがかわいくて仕方ないらしい。こんなに可憐でかわいらしい子供がいたら、一瞬たりとも逃さず残しておきくなる気持ちはよくわかる。
でも。
――子供のころから星空くんは『星空くん』だったんだ。
昔からとびきり美しいこどもで、その美しさゆえにみんなとは違って幼いころからお仕事をしていて、みんなから特別なまなざしを向けられていた『星空くん』。
キッズモデルとしてのお仕事が落ち着いたあと、アイドルになる前にいちど芸能界を離れようと思っていたことがあると聞いたけれど、きっと、それでも星空くんは普通の男の子にはなれなかったかもしれない、と僕は思った。こうしてよく一緒にいるはずの僕だってみんなと同じように、ふとした瞬間についきみに見惚れてしまうから。
星空くんは普通に生きるには、少しだけ、美しすぎるような気がした。
――これまで、僕たちの共通点は同い歳というくらいだと思っていた。育ってきた環境も、通っている学校も住んでいる場所も違う。兄ちゃん――羽柴大也の、アイドルの弟というだけの僕と、正真正銘ほんもののアイドルである星空くんは、全然違うと思ってたのに。
図々しいかもしれないけど、身体の弱い僕がクラスのみんなと同じように過ごすのが難しかったのと、どこか似ているのかもしれない、って。
僕は何度も、もしも叶うならば――と考えてしまう。羽柴朝日という僕を知るときに、最初に来るのが『身体の弱い子』であってほしくなかった。ただの、ひとりの普通の少年の『羽柴朝日』として出会っただれかと気の置けない友達になれたら良かったのに、と。
「せいらくんは、すごいな」
何度も同じことばっかり言っている僕に、うち来てからすごいばっかりじゃない、って星空くんが笑ってた。
でも、ほんとにすごいと思ったんだよ、星空くん。だって星空くんはアイドルになって、本当にたくさんの人たちからまなざしを向けられてる。星空くんのなりたい『星空くん』になることを、自分で選んでる。
そんな星空くんと、なんてことない僕がこうして普通に話していることに、なんというか――ふと、びっくりすることがある。
『朝日』と。彼は始めから僕の名前をただ呼んでくれてるのに、僕が『星空くん』と呼んでいるところには、そのびっくりの名残があるのだと思う。びっくりの引っ込みがつかなくなって、それを変えるきっかけもなくて、僕はそのちょっぴり非対称な呼称を使い続けている。初めて会った日に星空くん本人からそれを指摘されているけれど、それきり、なんだかんだでそのまま一緒に遊ぶ仲になって、まあそういう友達もいるし、たぶん。『たぶん』なのは、僕にはあまり――その、友達が多くなかったせいだけれど。
星空くんと違って、僕は――まだ、どこか居心地が悪いままだ。
心配をかけたくない。平気でありたい。僕は大丈夫、元気だって――そういうふりくらい、していたい。そうじゃないとすぐに『身体の弱い子』になってしまいそうで、怖かった。
えへへ、とごまかすように笑う。
「どうしよ、アルバム見るの楽しすぎて、全然宿題やってないや」
わずかに重たく、熱くなり始めた身体を見ないふりして。
――やめてよ、おねがい。今日くらい楽しく、ただの『僕』でいたいのに。
「朝日」
星空くんが、僕を呼んだ。
「もう布団引いちゃおっか、お泊まりは、消灯してからも楽しいんだよ」
どうしてだろう。周囲の気遣いと配慮は、いつも申し訳なさと悔しさでいっぱいで泣きたくなるものなのに。
その優しさは、星空くんの優しさには、素直に甘えたくなった。
◆
早寝した日は、やっぱり早く目が覚める。
まだ早朝とも呼べないような、宵の色をしていた空にほんのりと光が混じり始める頃だった。
薄明かりの部屋の中、はだけていた布団にもう一度くるまってみる。星空くんがぼくのために引いてくれた布団。ふかふかして温かくて、優しかった。
僕が思い描いていたお泊まりの定番といえばもうひとつ、消灯後の暗闇で交わす会話。もう寝た?なんて確認しあって、くすくす笑いあうような、そういうイメージのやつ。それをやろうという誘い文句で消灯した手前、星空くんとちょっとだけ布団の中でおしゃべりしたけれど、それでもきっと程なく僕は眠ってしまったのだと思う。
せっかくお泊まりに呼んでもらったのにさっさと寝てしまってもったいなかったなと後悔しかけたけど。
「おはよ、朝日」
同じく寝起きの顔をした星空くんからの、目覚めのあいさつ。小さなささやき声のそれはすごく素朴で、なんだかいいなと思った。
「おはよう、星空くん」
「もうねむくないの?」
「うん、目が覚めちゃったみたい」
「朝日っていつも早起き?」
「起きてても、布団から出るのはゆっくりだから……遅起きかも」
「あ、わかる。起きたあと布団でごろごろするの、いいよね」
布団の中から、こそこそと小さな声で交わす会話は、秘密めいていて、くすぐったくて、楽しかった。うん、大丈夫――お泊まりの定番は、朝でもできるみたい。
「ねえ。もしこのまま起きられそうなら、次は――」
星空くんからのすてきな提案に、僕はもちろんすぐに頷いて応えた。
――だって、寝静まっているはずの時間にそっと部屋を抜け出すのも、お泊まりの定番だもんね。
◆
朝の温度だ。
夏の暑かった昼間の空気は夜を通り抜けるとわずかに冷やされて、朝に似合う温度になる。世界がまだ眠っているような、太陽が昇りきる前にしか感じられない空気の温度だ。心地良く、小さな風になって僕たちの頬を撫でていく。羽織ってきた薄手のカーディガンが微かにはためいた。
しんとした街並みに、ふたりぶんの足音が響いていた。あたりには僕たちのほかには誰もいない。こっそり内緒で抜け出したシチュエーションにぴったりで、わくわくする。
ああ、どんどん『内緒』が楽しくなっちゃう。どうしよう。
「あは、朝日も悪い子だね」
僕を先導するように前を歩いていた星空くんが、振り返って笑う。きらきらした金髪が風に揺れてきれいだった。
「でも、行き先は近場なんだ。もうすぐ着くから」
星空くんの背中についていく。ゆびさす方へ。落ち着きのある住宅街を抜けて、川沿いの小高い堤防を目指してゆっくり歩いていく。
「あのね、この時間なんだ。ここからよく見えるの」
「なにが?」
「朝日」
――それは僕のことじゃないって、わかってるけど。
ゆっくりと昇り始めた太陽が、爽やかなオレンジ色で紺碧の朝空を染めていた。
きらきらひかる川のむこう、空と地平の合間を見つめて。
星空くんが、呼んでる。
「……ずるいよ、もう」
最初からそうだった。
ためらうことなく、朝日、って僕を呼んで。
人気者でみんなが憧れるアイドルなのに、さらっと連絡先を教えてくれて、兄ちゃんに内緒の遊びに誘ってくれて、初めて家に呼んでくれて。
たくさん笑って、たまに怒って、ちょっぴりのわがままで振り回して、でも根っこのところがすごく優しくて、よく周りを見ていて、さりげなく気遣ってくれて。
そうやって僕と、友達になってくれた。
「ん、なんのことかな」
とぼけたように斜め上に視線を反らして、ぺろりと舌を出す。
そんなわざとらしいポーズ、わかってるよって合図だ。
「ずるいよ……、せいら」
まったく敵わない。
――僕が呼ぶのはごまかしがきかないのに。
星空は、ふふ、って笑って空を見上げた。
いよいよあかつきの頃を過ぎていて、ほしぞらはもうそこにはいない。
ああ。もしかして、ずっと待っててくれたのかな。
僕はやっと、きみと。
「ありがとう。すごく、きれい」
奇跡みたいだと思った。ここでこの景色を、ふたり並んで見ていること。
「うん。ぼくも、朝日とここに来れてよかった」
徐々に明るさを増していく朝の光に照らされたうつくしい少年は、天使の美貌にやわらかな微笑みを湛えている。まぶしくて、溶けてしまいそうだった。
これからもきっと、兄ちゃんたちと一緒にアイドルとして輝いて、僕の手の届かないような高みへ、どんどん駆け上がっていくのだろう。『星空くん』は、きっとたくさんの人にまなざされて、愛されていく。
でも、それだけじゃない星空のことを、僕はもうたくさん知っている。
彼がスポットライトの光さすステージを降りて一息つきたいと思ったとき、僕は星空と、ただ、友達でありたいと思った。
そう思ったとたんに、どうしてだろう。僕の頭の中にはこれから星空とやりたいことが次から次へと浮かんできた。
「ね、せいら、また遊ぼうね」
だから、今日も僕らのやりたいことを話そう。いっぱい遊ぼう。おいしいものを食べよう。同い歳の僕たちらしく思い出を積み重ねよう。
「だって、次もその先も遊んでも足りないくらい! 僕もせいらとやりたいこと、いっぱいあるんだ」
とりあえず今度は僕の家にせいらが遊びに来てほしいなあ、あ、うちだと兄ちゃんがいるからきっとその日は三人になっちゃうけどそれは許してね、ぜったいまたせいらとふたりでも遊びに行くから、そっちはどうしようかな――。
ぶつぶつ呟きながら次回の計画を練っていたら、星空はきょとんとしたあと、おかしそうに笑った。
「朝日、覚えてる?」
「なに?」
「ぼくたち、まだ夏休みの宿題、ひとつもやってないんだ」
僕がすっかりお泊まりの目的を忘れてたのが相当おもしろかったみたいで、ひとしきり大笑いしてからようやく「さあ、うち帰って今日こそ宿題やるよ!」と大きな声で宣言して、星空が立ち上がる。太陽はいつしか大きく顔を出していて、静かだった街も目覚めの雰囲気を迎えていた。
「ごーごー! 朝日はとっくに昇っているよ!」
星空が帰り道をゆびさして、一足先に歩き出す。
でもそれは僕がちゃんと追いつける速さで、ちょっぴりくすぐったい気持ちになった。
「うん。行こうか、せいら」
すぐに追いついて、帰り道をふたり並んで、同じ速度で歩いていく。
夏の爽やかな暑さが、風に乗って空へ舞い上がっていった。