天使のはしごを昇る日に
息苦しい家を飛び出して、自由に羽ばたく夢を見た。 高く飛ぶ彼らに、プリズムスタァに憧れた。 彼らが放つ輝きに、プリズムの煌めきに。 あの日、恋をした。 ◆ 「将来の夢」――幼い頃からずっと、その言葉を聞くたびに不思議な感覚にとらわれる。 夢とはつまり、可能性に溢れた未来のこと、無限大に広がる選択肢のこと。なんにでもなれる自分の選択肢が無限に広がっていることなのだろう。そんな夢を見る必要は、俺にはない。なにしろ俺は、最初からそれを知っていた。将来は十王院の家を背負って立つべく存在として、自分は生まれたのだということ。 それを最初に教わったのが一体いつだったのかは覚えてない。漠然とではあるが、それでも物心ついた頃にはとうに理解していたように思う。 黙っていても跡継ぎになれるわけじゃない。その資格は努力の上に掴み取るものだ。 努力をした。幼い頃からそのために必要な知識も経験も積んできた。その自負はある。 それでもこの立場に、十王院の家の嫡男として生まれたアドバンテージは大きすぎた。 積み重ねた努力は才能と呼ばれた。 憎まれもした。 妬み嫉みをこのありあまる財産でも買いきれないほど買った。 ただこの家に生まれたというだけで。 裏切られて、傷ついて、それでもこれが人生だった。 特殊な家庭に生まれたのだと、自分が周りとは違う生活をしている程度のことはわかっていたが、小学校の高学年になったあたりでようやく気づいた。同級生、それに教師でさえも、自分に気安く接してくる者がいないこと。 金持ちや名家の子息が数多く集まる名門校であってもなお、十王院一男が頭ひとつ飛び抜けた財閥の御曹司であることを誰もが知っていた。「一男くん」と名前を呼ぶその声はいつも、どこか引け目を感じているような、あるいは、怯えのような色を含んでいた。 昼休みはいつも、鐘が鳴るなり外へ駆け出していくクラスメイトたちの背中をただ見送った。廊下を走るんじゃない、と叱り飛ばす先生の大声が聞こえる。 気安く呼び捨てで互いの名前を呼び合える彼らのことを、どこか遠くに感じていた。気軽に笑いあって軽口を叩いて、時には喧嘩して殴り合ったりもして。 窓の向こう、校庭ではしゃぐ彼らの横顔は無邪気で、幼くて、だからこそ――遠い。 決してこちらを見ることはない彼らの背中から視線を外して、鞄から取り出した読みかけの本を開いた。あの輪の中に、自分はいない方が良いのだと知っていた。 早く放課後になれば良い。 そうしたらすぐに迎えの車が来て、習い事の始まる時間までに自宅に連れて帰ってくれる。 あの殺伐とした家を、決して居心地が良いと思わないけれど――せめて疎まれない場所にいたかった。 いつの間にか両親にすら、包み隠さず自分の考えを話すことはなくなった。 そうして過ぎていく日々を、生きるとはこういうものなのだと思っていた。 これこそが、十王院の嫡男に生まれた、十王院一男の人生だと。 ◇ その日はなんとなく家に帰るのが憂鬱だった。 父に連れられて行った仕事の帰り。適当な理由をつけて、父が乗った送迎車を見送った。 特に道草する場所も思いつかず、電車で数駅の距離をゆっくりと歩いていく。ビルの立ち並ぶオフィス街を背に、騒がしい繁華街を通り抜け、落ち着いた気配の住宅街へ。さまざまに移り変わる景色を静かに楽しみながら、ひとり、歩いていく。 日が落ち始めている。頬を撫でる風はすこしだけ冷たく感じられた。オレンジ色の街並みに溶け込むように、人気のない裏通りを、静かに進んでいく。 偶然通りがかった高架下。 電車がごうごうと通り抜ける音に思わず耳をふさぐ。 がたんごとん、揺れる電車を見送って耳に当てていた手を離すと、すぐ近くからわっと歓声を上げる少年の声が聞こえた。 「すっげぇ〜〜! もう一回見せてください!」 「おう、いいぜ!」 高架下の広い空間、安全第一と書かれた看板の隙間に潜り込んで、声の主を探す。鉄筋や工具が雑然と並ぶ、まるで子供が探検ごっこをするような、普段の俺なら決して入り込まないであろう場所。 そんな場所で、プリズムショーを見た。 『バーニングスプラッシュ!』 初めて本物を見た。力強いジャンプ。 こんなところでもプリズムショーができるんだな、と素直に感心した。テレビで見たことのある「プリズムショー」というのはいつでも華美なステージの上で行われるもので、だからこんな身近な距離で行われていることに少し驚く。 そこには二人の少年がいた。おそらくひとりは年上、もう一人は年下。ジャンプを跳んだ少年は俺よりいくつか年上に見える。ジャンプから着地するなり、それを近くで見ていたもう一人の男の子が弾かれたように走り出し、少年の元へ駆け寄る。 『――さんみたいになりたい、おれ、いつか絶対にエーデルローズにいきます』 『おう。楽しみに待ってるからな――』 プリズムジャンプを跳んだ少年は、幼い男の子の黒髪の頭を撫でる。 興奮したように黒髪が飛び跳ねて、感嘆の声をあげる。小学生だろうか、まだあどけなさの残る顔つきで、透き通るように笑った。 通り抜ける風が、きちんとセットされた前髪を乱していく。 高架の向かいに沈んでいく夕陽が、高架下のコンクリートを夕焼け色に染める。再び頭上をごうごうと電車が走り抜けていく。その音にかき消され、会話は聞き取れない。傾いた夕日に照らされて、笑い合う二人の影が伸びていた。 その時の気持ちをいまだに俺はうまく言葉で説明できないけれどーーただ、その光景を、どうしようもなく羨ましいと思った。 家に帰ってすぐさまプリズムショーについて調べ、あんなふうに路地裏のような身近な場所でプリズムショーをしているストリート系と呼ばれる流派の存在を知った。彼らが言うには、ストリート系とは己と向き合い、己を高めるプリズムショーのスタイルだ。初めて知ったが、プリズムショーはたとえステージでなくとも、どんな場所でもできるのだそうだ。 「エーデルローズ……」 そして、もうひとつ知ったことがある。 あのとき彼らが話していたのは、プリズムスタァ養成学校の名前だということ。 ◇ 「お疲れ様です、一男さん」 「ああ。ありがとうございます」 自室に戻り束の間の休息。 家政婦による自室の清掃を断るようになって、多少散らかりはするものの室内の生活感は増したように思う。 床にプリズムショー関連の雑誌や映像媒体が積み重なっている。周囲の人に見咎められない程度のペースで地道に、少しずつ集めた大切な資料たち。集めた選りすぐりのコレクションを見返すたび、その煌めきは、荒んだ日常を少しだけ潤した。 お気に入りのDVDを一枚手に取る。パッケージで笑うのは、自分とさほど変わらぬ歳の美少年。 人気アイドルユニットOverTheRainbowのメンバーであり、実力トップクラスの男子プリズムスタァ、速水ヒロ。 圧倒的な表現力に裏打ちされたパフォーマンスと、美しく安定感のあるジャンプ。 実力派のアスリートでありながらアイドル活動にも力を入れている。ファンへの感謝を欠かさず、いつだって非の打ち所のない笑顔。 聞き慣れた彼の十八番、『pride』が流れ出す。テレビの向こうで歌い踊る彼は、きらきら眩しく、輝いて見えた。 彼はきっと経営学も帝王学も株取引も知らない。俺がこれまで学んできたたくさんのことをなにひとつ知らないだろう。それでも、見る者の心をときめかせる彼のことを、数多の人が愛しているのは明らかだった。 そんな彼の姿に、いつしか憧れを抱いていた。 進路指導が始まる中学二年の終わりごろ。 当たり前のように、資産家の娘息子が集まるこの学校でエスカレーター式に進学するのだろうと、誰もが、少し前の自分自身でさえ思っていた。 ――この十王院ホールディングスを統べる社長としての器を示すために、なにかを成し得たい、と決意した時に、頭に浮かんだ手段は、たったひとつ。 あるいは、それはひそかに抱いていた年相応の憧れに泡沫の夢を見るための言い訳だったかもしれない。 「失礼します」 「ああ、一男か」 進路について相談がある、と言って時間を割いてもらった父と、社長室で対面する。父としての彼に会うのは久しぶりだった。いつも通りに忙しそうな様子で、話を聞こうとは言いながらも机に向かい、書類の整理をしている。 さて、ずっと真面目な良い子をしてきた俺がこれから言うことを聞いて、父はどんな反応をするのだろうか。 「僕に、プリズムショーをさせてください」 「……プリ?」 作業の手をぴたりと止めてこちらを見ている。 あの時の父の面食らったような顔はいまだに忘れることができない。 『プリズムジャンプは心の飛躍』。 ――いつかあんなふうに自由に飛べたなら。 抱いていた淡い夢に、はじめて手を伸ばした。 ◆ 「つ、着いた……」 改札を出て辺りを見回した瞬間、まるで違う世界に来たような光景におもわずひとりごとを零してしまった。 行き交う人々と喧騒が絶えない駅前の大通り。吸い込んだ空気に混じるわずかな違和感、嗅ぎ慣れない排気ガスのすえた臭い。高い建物に囲われた空は、小さくて遠い。上京して慣れない電車を乗り継いでようやく到着した街は、まぎれもない都会だった。 「あれ、君、もしかしてエデロの新入生? 迷ってるなら案内してあげようか〜? どっから来たの? 歳いくつ? ていうか名前教えてよ〜!」 手に持っていたエーデルローズへの地図を覗き込むように、一人の青年が声をかけてくる。 ナンパかよ。 「香賀美タイガ。中三。青森……」 「青森!? 中学生がひとりで青森から来たの!? 荷物重そうだし、なんならエーデルローズなら帰り道だし、うちの車呼んで送ってあげちゃおっか?」 ――不審者かもしれない。 警戒しながらなるべく無愛想に答えていたのだが、相手は気にする様子もなく次々と話しかけてくる。会ったばかりでこちらのことを馴れ馴れしく聞いてくるくせに、自分はエーデルローズの新入生だと言うくせにろくに名乗りもしない。最初からさして良くなかった印象もこれでは悪くなる一方だ。 大会で活躍する人材を数多く輩出するプリズムスタァ養成校の名門であるエーデルローズに、ストリート系のプリズムショーを志す者が少ない事は知っていた。それでも、初めて会ったエーデルローズの仲間がこんなチャラチャラした男であったことに、正直なところがっかりしていた。 ――というか本当に不審者だったら困るので、車を呼ばれる前に、半ば逃げるようにチャラ男を振り切って撒いた。カヅキ先輩に会うまでは死んでも死ねない。 それでも相変わらず迷子であることに変わりはない。我慢してあいつに連れて行ってもらえばこんな苦労はしなくて済んだかも、という考えが何度か頭をよぎったが、そもそもあいつの話に付き合ったりそこから逃げたりする時間がなければもっと早かったと思えば、余計に腹が立った。 結局、エーデルローズに到着したのはすっかり日も沈んだ夜のことだった。 「タイガ!」 「――カヅキさんっ!」 到着して早々、挫けそうになっていた心は、出迎えてくれたカヅキ先輩に会えた嬉しさで一気に吹っ飛ぶ。 田舎を飛び出してまで追いかけてきた憧れのひと。あの高架下で偶然出会った小学生の俺にプリズムショーを教えてくれたひと。あのジャンプの熱気、そこに込められた情熱、田舎に戻ってもあれから数年が経っても、すべてが思い出に焼き付いて離れなくて、どうしてもあの人みたいなプリズムスタァになりたいと願って、俺はここまで来たんだ。 わけのわからない街で迷い続けてぐずぐずに折れかけていた心が、張りを取り戻してくる。俺はこの人の傍でこれから頑張っていくんだ。 心の中で気合いを入れ直してカヅキ先輩と話しながら寮の玄関をくぐると、目の前に『あいつ』がいた。 わずかな時間一緒に歩いただけだが、忘れるわけがない、昼間にうんざりするほど恨んだあいつ。切り替えたはずの気持ちがふたたび萎んでいく。 「あー、さっきの子だ」 目が合って、向こうも俺のことを認識したらしく、さっきと同じようなノリで馴れ馴れしく話しかけてくる。相変わらずのうざさ。 「なーんだ、迷ってたの? 逃げなきゃ連れてきてあげたのに」 「誰がおめーみたいな奴の世話になるかよ」 「うーん。なーんか嫌われちゃってるカンジ?」 「タイガ、みんなと仲良くするんだぞ」 「う、うす、カヅキ先輩」 「だってさ〜。よろしくねんタイガきゅん」 「うっせ調子乗んな、その呼び方やめろ、とりあえず名乗りやがれ」 「ああそうだ、おれっち名乗ってなかったんだよね……カケルだよ。十王院カケル。シクヨロ〜」 先ほどの私服姿とは違い、既に華京院高等部の制服を着こなしている。先輩であることは明らかだった。昼間は知らない奴だと思っていつも通りにこの口調で喋ってしまったが、向こうはそれを気にする様子もない。どうやら敬語を使えというタイプではないらしい。相手が先輩であれば敬語を使うのが条理だが、気に食わない奴に態度を改めるのもどうにも癪で、今更引くこともできずそのまま話し続ける。 「カケル……お前も新入生なのか? どうしてプリズムショーやろうって思ったんだ」 「当然、女のコにモテるために決まってるでっしょ〜。プリズムスタァになればモテモテだよ〜?」 カケルはケラケラと軽薄な顔で笑う。 最悪だった。ここに来たことを少しだけ後悔した。絶対に後悔しないと決めて、故郷を飛び出してきたはずなのに。 それでも、ここにはカヅキ先輩がいる――それだけが救いで、ただそれだけで構わなかった。 初対面が最悪だったカケルに対し、他のエーデルローズの候補生はなんだか大人しいヤツやガキっぽいやつばかりで、それはそれで、あまり居心地が良くなかった。 たまに寮に帰ってくるカヅキ先輩と話せることだけが喜びだった。それ以外の時間はあの高架下で練習したり、誰にも見つからないように木に登ってひとりで過ごしていた。 数年かけて親を説得して上京して、ようやく憧れのエーデルローズに来たはずなのに、なんだか味気ない日々だった。 「ん、なんだ『カズオ』じゃねえか」 「タ、タイガきゅん、その名前はどこでお知りになったのかにゃ〜……」 「どこでも何も、ミナト先輩が呼んでるだろ。おめぇ嘘つきやがったな」 「嘘じゃないよ。俺の名前は『カケル』。そっちはビジネスネーム」 「あ? ミナト先輩はカズオが本名だって言ってたぞ。結局どっちなんだよ」 「もちろん、カケル」 「じゃあカズオだな」 「なんで〜!?」 「カズオの方が嫌そうな顔したから」 「タイガきゅんのいじわる〜」 「おめぇが言うのかよ……」 食堂のテレビを占領してカヅキ先輩のプリズムショーを見ていると、隣にあいつがやってきた。 せっかくなので最近仕入れた名前ネタを使って追い払おうとしてみたが、嫌そうな顔をしただけで逃げる様子もなく、そのままカヅキさんのショーの映像に見入っている。邪魔だと思ったけれども、うっひょ〜、とか言いながらテレビに釘付けになっているのを見るのは悪くない。そうだ、カヅキさんはすごいんだ。 「お前もカヅキさんのショー、好きなのか?」 「もっちろん。なんてったって今をときめくオバレの一員、そしてストリートのカリスマよ?」 「……アカデミー系の奴らはストリートのショーには興味ねえんだって思ってた」 「おれっちはプリズムショーのことならなんでも知りたいし、いろんなプリズムショーが見たいって思ってるよ。ま、だから、カヅキさんだけが好きなわけじゃないけどねん」 「ふうん」 「ねえ、タイガきゅんはカヅキさんのことが大好きなんだね〜?」 「い、いや好きっていうか……カッコイイだろ! 俺はあの人のショーを見てからずっと、あの人みたいになりてえって思ってるっていうか、いや、違う、ただ単純にリスペクトして……ああもう、じゃあお前はどうなんだよ。好きなプリズムスタァとかいねえのかよ」 「おれっちの? それはひ・み・つ〜」 「あ!? ずるいだろ!」 カヅキ先輩のショーを好きだと言った。それだけで、案外話が通じるところがあるかもしれない、なんて思い直してしまう。 相変わらずチャラチャラしていていけ好かないが、カケルという人間に、少しだけ興味を持った。 あれ以来、カケルが話しかけて来た時は二言三言、言葉を交わすようになった。カヅキ先輩の話をする時はもう少しだけ長く。 カケルも寮を留守にしていることが多いようで、あまり帰らないもの同士、タイミングよく顔を合わせるときは同じ机で食事を摂ることが多かった。実際、都合が良かったのだ。プリズムスタァ、つまりカヅキ先輩のメディア出演情報について、あいつはやたらと詳しかったから。 「あの雑誌、カヅキさんが載ってたのに買い損ねた」 「あ〜。あれなら買ったよ。部屋にあるけど」 「貸せ」 ごちそうさまでしたと伝えて食堂を出て、カケルの部屋へ向かう。カケルも急いで席を立って小走りでついてくる。 「まったく横暴だなあ、タイガきゅんったらヤンキーみたいな態度ばっかり取ってさ。中身はこんなにピュアピュアなのに」 「うるせえ、いいから早く出せ」 「あっ、ちょっと、タイガきゅん待っ」 制止の声は聞こえなかったことにしてカケルの部屋のドアを勝手に開ける。部屋の電気はつけっぱなしになっていて、そこには山のようなプリズムスタァたちがいた。 積み重なった雑誌、壁一面のポスター、DVDやブロマイド。 目の前にでかでかと貼られたポスターに、特大の笑顔のヒロさん。そのぱっちりした大きな瞳と目があって、絶句する。 「あっちゃ〜……片付けとけばよかった……」 「カケル、お前……」 「……とりあえず、ハイこれ、カヅキさんの記事載ってるやつ。あとはお部屋で読んでね〜」 「お、おう」 いつもはうざいくらいに絡んでくるカケルが、今日ばかりは拍子抜けするほど素早く部屋の戸を閉める。 プリズムショーのことならなんでも知りたいと言っていた時のカケルの顔を思い出した。 ――あいつ、なにがモテたいだよ。 「プリズムショーのこと、めちゃくちゃ好きじゃねえか……」 ◇ 「で、タイガきゅんはなんでまた来てるワケ〜?」 「うるせえ。邪魔はしてねえんだから良いだろ」 「部屋に自分以外の人がいると気になるんだけどにゃ〜……」 「これの12月号どこだ」 「右の本棚の一番下」 「サンキュ」 カヅキさんの写真やインタビューが載った雑誌、数少ないショーのDVD。 カケルの部屋には、田舎にいた頃には手に入らなかったものがたくさんあった。 「まったく、勝手に人の部屋に居ついて、猫みたいだよね」 「そんなかわいいモンに喩えるんじゃねえ。虎とかにしろよ」 「タイガーだけに? まあ確かにネコ科だし、ちょうど良いカンジかも」 無視したらそのうち話しかけてこなくなった。 そうして黙って、互いに好き勝手、バラバラのことをして過ごす。 カケルの部屋の居心地は存外悪くなかった。 そんな風にカケルといくらかの時間を共に過ごして、言葉を交わしていくうちに考え方も変わっていった。やっぱりチャラチャラしたところは好かない。それでも、プリズムショーへの情熱は本物だと思った。だからこそ仲間として認められると思った――思っていた。 「カケルさん……今はシュワルツローズにいるらしいです。休学、ってユキ様から聞きました」 ぐるぐると視界が回るような感覚。信じていた世界はあっさりと崩れていく。 シュワルツローズの引き抜きで、エーデルローズから日に日に仲間が減っていった時期のことを、気高い薔薇が衰退していく絶望感を、未だに忘れることはない。この人数になるまで減り続けて、今残っている奴はエーデルローズ生の仲間なのだと、ようやくそう思えるようになったのに。 裏切られた、と思った。 どのインタビュー記事でも、学校紹介でも、あの学院がアカデミーの大会で得点を稼ぐことを至上命題にしていることは明らかだと――カケルの部屋で読みふけったあらゆる雑誌で、そう知った。点数で測れないストリート系のプリズムショーを受け入れてくれるような学校ではない。シュワルツローズにストリートの居場所はないと、それを教えてくれたのは、他でもないカケルだ。 「なんでだよ、なんで、あいつが」 なんだかんだ楽しそうにしていると思った。エーデルローズのことを大切にしてくれていると思っていた。ストリート系のプリズムショーの志も理解してくれる、意外と話のできるやつだと思っていた。 いつのまにか俺の中であいつが、信頼できる奴になっていた。 こんな形で気付かされたことが辛い。 あの日、カケルに裏切られた。 ◆ 幕間 「十王院財閥の御曹司だからね、カズオは。僕たちが想像するには難しいこともあるんじゃないかな」 眠れないと言って食堂に降りてきた俺に、夜中にも関わらずココアを淹れて、こうして穏やかに話を聞いてくれるミナト先輩という人は、本当に優しく、温かい人だ。 「オンゾーシだから、ですか」 財閥の家庭の事情とか、実際あまり想像のつかないことだった。 逆に誰にだって起きることだと思う。田舎の旧家というごく普通の、むしろ恵まれているような家庭で育ったタイガにすら、中学生での上京にあたって多少の揉め事は起きたのだから。 親とか家とか関係ない、俺は俺のやりたいようにやる。常にやりたいと思ったことを貫き通してきた自分と、昔ながらの旧家らしく保守的な考え方の両親とはぶつかることが多かった。そういう場面で互いに頑固で譲らないのは、それこそ血なのかもしれないが。 「香賀美はそういうの、力ずくでなんとかしちゃいそうだもんね」 ミナト先輩が笑う。けれども、そう言うこの人自身だって、実家にいるたくさんの弟妹たちと離れて暮らしている。携帯の待受になっている写真を見たことがある。かわいいちいさなきょうだいたちに囲まれてくしゃくしゃの笑顔で笑っていた人が、家族を残してひとりでここに来たのだ。 それぞれの家の数だけ事情がある。 「それでも、どうにもならないこともあるんだろうなって。太刀花やカズオを見てるとね、僕も、思うよ」 「そんなもんっすかね」 わかるような、わからないような気持ちでココアを啜った。 甘ったるい子供の味がした。 ◆ ある真夜中のこと。寮を抜け出してやってきた高架下で、タイガが待っていた。 「タイガきゅん、どうしたの急に」 「カズオ。俺と勝負しろ」 復学してしばらくタイガに避けられていると感じてはいたが、突然高架下に呼び出されて来てみればこれだ。 休学している間は知らなかったけれど、俺が本当にシュワルツローズに引き抜かれたのだと思っていたらしいタイガは、裏切り者の俺に対して相当に怒っていたようだった。誤解が解けた今でも、その怒りの感情は簡単に整理がつけられるものではなかったらしい。 だからと言って勝負しろとは、どういう流れでそうなるのか全然理解が追いついてないけど、とりあえず怒っていることだけはその表情からよくわかった。 「……黙ってシュワルツローズに行ったこと、怒ってる?」 「怒ってるに決まってんだろ」 「わかったよ。受けなきゃ許してくれそうにないしねん」 「ここでチャラチャラ生ぬるいショーをしたら、俺はお前を一生許さねえ」 「うわぁ。やだよ俺っちタイガきゅんに嫌われっぱなしなんて」 「じゃあ本気でやってみろよ」 「……はいはい」 ストリートの男は一緒に踊れば全部わかんだよ、って無茶苦茶言って、タイガは踊り出す。 曲はいつものボーイミーツガール。 「はぁ……タイガきゅんって結構強引というか、いっそ傲慢だよね」 「おめーがチャラチャラしてっからだろ」 この場所でのダンスバトル。否応無しに思い出す。カヅキさんとアレクサンダーが熱くぶつかり合った日、休学していた俺が久しぶりにタイガに会った日のこと。 あれからずっと引っかかっていたこと、胸に刺さったままの小さな棘。黒く鋭く、喉の奥から現れて、言葉になって放たれる。 「おれっちだけじゃなくてさ、カヅキさん相手の時だってそーじゃん。なにしろ俺の知ってる仁科カヅキじゃない、だもんね。カヅキさんはタイガが自由にできるものじゃないんだからさー。そんなの傲慢じゃない?」 「……んだよ、聞いてたのかよ。趣味の悪ぃヤツ」 タイガはそれだけ言って、あとはなにも答えなかった。あのまっすぐな瞳が惑うように揺らいでいることに気づいて、どうしようもない罪悪感に襲われる。わざと傷つけたくせに。 パーソナルスペースに躊躇いなく踏み込んでくるような不躾な距離感。他人のあり方を定義するその言葉に宿るのは、素直でまっすぐで、純粋な、だけれども傲慢な強さ。 あの言葉に俺は苛立っていた。何も知らないくせに、他人のくせに、勝手なことを――なんて。 「いや、こんなの八つ当たりだ、ごめんね」 ぶんぶんと大きく頭を振って、余計な考えを追い払う。集中だ。こんな生ぬるい気持ちのまま飛んでタイガに嫌われっぱなしになんてなったら、そんなのほんとに、悲しすぎる。 集中、ともう一度自分に言い聞かせる。 流れる旋律に身を任せてーーさあ、飛べ。 『本気DEデート!オ・モ・テ・ナ・シ FirstClassへご招待!』 跳べた。 これが、ようやく跳べるようになった俺のプリズムジャンプ。 タイガが見るのはこれが初めてのはずーーと、表情を伺えば、目を見開いて、ぽかんとした顔のタイガと目が合う。なんだかおかしくて、ジャンプを飛んだ高揚感もあいまって思わず口元がほころぶ。わずかに抱いていたどろどろした複雑なタイガへの感情、その顔で全部吹っ飛んでいった。 ああ、いつだって本当に、余計なことばかり考えている。もったいない。目の前の今を楽しまなくてどうする。 俺はいま、プリズムショーをしてるんだ! 「はは、タイガきゅん、おれっちに見惚れちゃった?」 「――んなわけねーだろ!」 いつもの調子に戻って、というよりもむしろ嬉しそうに、タイガが走り出す。 「跳べるようになったんだ、俺も。負けねえ。見せてやるよ、坊っちゃん」 タイガが笑う。誇らしげに。そして、高らかに飛ぶ。 『祭だ!わっしょい!フォーチュンボーイに花束を』 思わず息を呑む。刹那、あの日見たプリズムジャンプのことを思い出した。夕焼け色に染まったこの高架下で見た、きらきらと輝いていた、はじめて間近で見たプリズムジャンプを。それを見て笑う幼い少年の顔が、おぼろげに一瞬ちらついて、また記憶の彼方へ溶けていった。 「どーだ坊っちゃん、俺のプリズムジャンプは!」 タイガが透き通るような笑顔で、俺の隣に立っていた。 ちくしょう、敵わないな。悔しいけれど俺のほうが見惚れてしまった。 でも、ここで終わりたくない。終わらせてしまうには惜しい。 「まだまだ!」 「やるじゃねえか」 まだ連続ジャンプはできないけれど、時間をかけて、何度も何度もジャンプを跳んだ。互いに負けたくないという気持ちと、より高く跳べるようになる楽しさがやみつきになっていく。 そうして、曲のレパートリーも、体力も、負けん気も、全部が尽きるまで。 夜が明けてぶっ倒れるまで、ふたりで踊り続けた。 ◆ 港で見かけたストリートのカリスマ、黒川冷。偶然聞いてしまった会話の中で、カヅキ先輩に向けられていたはずの彼の言葉は、俺の中にもずっと残り続けていた。 「俺だって、仁科カヅキになりたいわけじゃない」 呟いてみるけれど、誰に届けたいわけでもない言葉は静かな部屋の中に溶けていく。 まるで自分に言い聞かせているようで、どうにも虚しく感じられた。 カヅキ先輩はカヅキ先輩で、俺は俺だ。そんな当たり前のことに迷っている。 ーー傲慢だ、と。 あの日のカケルに言われた言葉は、何気ない一言だったのだと思うけれどもずっと心のどこかに刺さったままで、時折ちくりと思い出したように痛むのだ。 当のカケルは、プリズムキングカップが近づくにつれ、再び姿を見かけなくなった。 また休学でもしていたらぶっ飛ばしてやると決めていたが、その気配を感じたのか、カケルが学校に来ていたぞ、などと寮のみんながまめに教えてくれる。ちなみに今日のは太刀花先輩から。別に俺に言う必要ないんスけど、とは言ったものの、その報告に安心する自分がいたのも確かだった。 寮には夜中などたまに帰ってきているようだったけれど、平日はほとんどすれ違いの日々だった。早朝や就寝前、カケルの部屋をたまに訪ねてみても、いつもその扉には鍵がかかっていた。 そんな状態が、プリズムキングカップが始まるまで続いた。 ◇ 「おい。こんな時にどこ行くつもりだ」 誰かと電話していたかと思えば、黙ってその場を離れようとする背中を見咎める。 まったく目ざといんだから、と呟いて振り返るカケルに、ふんと鼻を鳴らしてからもう一度問いかける。 「どこ行くんだよ、これからヒロさんの出番だぞ」 「ちょっとね〜。仕事があってさ」 「仕事って……ヒロさんのショー、見なくていいのかよ」 あの部屋にあった特大の速水ヒロポスターのことを思い出す。ヒロさんのプリズムショーはカケルにとって特別で、他のプリズムスタァよりもずっと熱心に見てた。 「いーの。これが俺の仕事」 「後悔、しねぇのかよ」 「ま、タイガきゅんの熱いバトル見せてもらったし、今回はそれで満足かな〜ってさ」 肩に手を置いてじゃれてくる。 ああ、こんなにもいつも通りなのに。 お前は。 「じゃ、そろそろ行くね。シンちゃんとみんなによろしく」 ヒロさんがプリズムキングに輝いたあの伝説的なショーが行われている裏で、カケルはここではないどこかで戦っていた。 あの時カケルがいろんなところに掛け合って、ヒロさんのショーを、prideを守ったのだと氷室主催から聞かされたのは、それからずいぶんと後のことだった。 あの日、俺も同じことを考えた。カヅキさんのショーを誰にも邪魔されたくなかった。失格になって自分のショーをできなかったこと、それを悔しく思わないとは言いきれない。けれどもカヅキさんの最高にフリーダムなショーを見られて、そのための戦いだったのだと思えば後悔はひとつもない。 だから久しぶりに少しだけ話したいと思った。この先ずっとプリズムショー界で奇跡と呼ばれるであろうヒロさんのショーを、憧れているであろう人のショーをたとえ目の当たりにできなくても、そのステージを守るために戦うことを選んだカケルの想い、多くの人は決して知ることのないその決意、知ってる俺たちだけでも認めてやりたくて。 自室から食堂に降りる道すがら、カケルの部屋の前を通りがかったついでにドアノブを回してみる。いつもなら鍵がかかって動かないはずの扉は、静かに開いた。 ――あいつ、鍵かけ忘れたのか!? 驚いて閉めようとするが、室内の違和感に気づく。 ……ヒロさんがいない。もちろんヒロさんがカケルの部屋にいるわけはないが、本物のヒロさんじゃなくて、顔がアップになっているでかいポスターのヒロさんの方が。 そっともう一度、今度はわずかな気まずさと共に室内を覗く。 暗い――暗すぎた。人気のない、ひんやりとした空気。 背後から差し込む廊下の明かりで部屋の様子を伺い、理解した瞬間、開け放した扉の前で一歩も踏み込むことができず、思わず膝をついた。 何もない。 雑誌のコレクションの数々、凝った高級そうな映像機器のタワー、天蓋付きの業者すぎるベッド。わざわざ改装してまで作りかえられたカケルの部屋が、なかった。 痕跡一つ残さず、まるで最初からいなかったみたいに。 カケルは、また消えた。 ◆ ここに来るだろう、なんて俺の勝手な期待だ。 約束したわけでも当てがあるわけでもない。 それでも、ここで待ってればいつかあいつが来るんだって確信があった。 轟音と共に、頭の上を電車が通り過ぎていく。いつのまにか通い慣れた高架下。カヅキ先輩がいつかしていたように、レビテーションの練習を反復する。数度目の回転する視界の中で、捉えた世界の端にふと見慣れた顔があるような気がして、動きを止めた。 「ふん。やっぱり来やがったな」 「はは、タイガがいるような気がしてさ。本当にいた。もしかして待っててくれちゃったりするワケ?」 「チョーシ乗んなよ」 「……サンキュ」 ジャンプの練習を続ける合間、ぽつりぽつりと会話を交わす。カケルはスーツ姿のまま、座り込んで俺の練習を眺めていた。セットされた髪、きちっと締められたネクタイ。 十王院一男の姿をしていた。 「飛ばねえのかよ、坊ちゃん」 「あー、スーツだしね。それに今は飛べる気がしない」 「つまんねぇな」 音楽はなくとも体に染み付いた、ボーイ・ミーツ・ガールのステップを踏む。 内心タイミングを伺っていた。 「学校来ないのとか、寮にも戻らねえのとか――寮の部屋、片付けたのとか、全部説明してもらわなきゃ気がすまねえよ」 「……あれ。俺の部屋、覗いたの?」 「偶然っ、てか事故でーーいや、悪ぃ……」 「ま、別に良いけど……ずっとこのままでもいられないし、ね」 「一応聞いとく。……プリズムショー、嫌いになったとかじゃないんだよな」 「大好きだよ。嫌いになんかなるわけない」 はっきりと否定されてほっとするけれど、そんな気持ちを抱いたことにすらわずかな悲しみを感じていた。心のどこかでカケルがプリズムショーをやめてしまうかもしれないと思っていて、それを恐れていたことに気付かされる。 「プリズムショーには可能性がある。プリズムウォッチ、ジャッジシステム、『十王院一男』としてもやりたいことだらけだ。まったく飽きさせてくれない。でも親はあんまりそういうのキョーミないみたいでさ。自分の仕事をきっちりこなした上で、プラスアルファでやるくらいじゃないと、認めてもらえそうにないんだ」 いま学校行けてないのは単純に仕事が忙しかっただけ、情けないけどね、と歯噛みするような顔をする。 「その上、俺さあ、なーんか嫌われものらしくて。世襲制への反感みたいな? 俺がダメだと十王院の家の――俺の家族の名誉が傷つく。俺だけの問題じゃないんだ。仕事もして、プリズムシステムの実用化とか手を出して、そんなふうにいろんなことやってるうちに、気づいたら『カケル』の方にまで手が回らなくなっちゃってさ」 淡々と言うわりにどこか悲しそうな顔で。 「でも、俺はいずれ十王院の家を継ぐ。もしこの先プリズムスタァとしてどんな成功を収めたとしても、将来は『十王院一男』だ。プリズムスタァとして生きていくことはできない。俺にとってプリズムスタァでいる時間は、まあ――ただのモラトリアムだ。大人になるまでの執行猶予。真面目にやってるみんなには申し訳ないんだけどさ」 自嘲するように笑う。 「俺は絶対に十王院を捨てられないけど、『一男』だけは俺が好きに扱える俺だけのもので、だから少しだけ、『カケル』になってみたかった。それだけ」 カケルが歌い出す。 『いつか離れる日が来ても……』 前向きな曲の中、たったひとり未来への不安を零した歌詞。 その言葉に続く救いの歌詞を歌ってくれる人たちは、今は、誰もいない。 それでも。 「プリズムショーが、好きだ」 ふ、と笑う。愛おしくて仕方ないというように、まるで恋しているような笑顔。 今日ここに来て初めて、ようやく素の顔で笑ったような気がした。 「ったく、ごちゃごちゃ難しいこと考えてんじゃねーよ。プリズムショーが好き、それでいいんじゃねーの? 未来のことばっか気にしててもしょーがねえだろ」 難しいことはわからない。カケルの家の事情も。仕事のことも。 でも俺なりに考えたこともある。俺は俺になりたい、カヅキ先輩を超えられる俺に。 だったら同じだ。 「お前はお前だ。『十王院カケル』だろ」 ◇ その力強い断定に、一瞬頭がくらりと揺れる。 「お前、前に俺に言っただろ。傲慢だって」 「いやあれは失言だったって言ったじゃん」 「俺、考えたんだ。俺の知ってるカヅキ先輩がなんなのか。そんでわかった、俺の知ってるカヅキ先輩は、俺がなりたい理想のプリズムスタァだ」 なぜか誇らしげにタイガが笑う。俺はなにも答えられず、タイガの言葉の続きを待っていた。 「でも俺はカヅキ先輩になりたいんじゃない、カヅキ先輩を超える俺になりたい」 空を見上げるタイガの視線を追いかけると、その先には太陽があった。 昼間の太陽。快晴の空の向こう、一番高いところで眩い光を放っている。 「まだどんな風になればいいのかとか、ちゃんとはわかんねえけど。でも、俺は俺のジャンプを跳べる。カヅキ先輩が持っていなくて俺だけが持っているものがあるんだ。地元の、青森の祭りの夜の空気、神輿の重さ、あいつらと俺の掛け声が響いて頭の中で混じり合って、気持ちがめちゃくちゃ熱くなる、俺にしか跳べないプリズムジャンプがあるんだ」 助走をつけて滑り出したタイガが、跳んだ。 『祭だ!わっしょい!フォーチュンボーイに花束を』 それはタイガだけが跳べるジャンプ。この祭りはきっとタイガの地元の夏の夜にしか知ることができない熱、俺の生きてきた世界とは遠くかけ離れた世界の輝きだ。 「でも、逆に俺の知らないことがこの街にはたくさんある、と思う。チャラチャラした街なんて好きになれねえって思ってたけど、でも今は、もっといろんなこと知りたいって思ってる。俺は今、エーデルローズで、この街で生きてるんだ」 タイガはそうして俺を真正面から見据える。 「お前のこと、最初からずっとワケわかんねえって思ってた。今でもだ。チャラチャラと俺に構ってくるくせに大事なことはひとっつも言わねえし、そもそもオンゾーシの生活とか全然イメージ湧かねえし、東京生まれ東京育ちのお前と気が合うなんて思えねえし」 「……あの、なんか悪口言われてない?」 「でも、お前とやるプリズムショーは、楽しかった」 ローズパーティーの後、この高架下で喧嘩した。 二人きりでプリズムショーをした。 ジャンプを跳んでは互いに負けたくないと思ったこと、夜が明けて精根尽き果てるまで踊りきった朝のあの高揚を、俺だって忘れていない。 「だからお前が勝手に『カケル』を諦めるな、勝手にいなくなるな。俺はお前とプリズムショーをしたい。何度でも戦って、俺は勝って強くなりたい。なのにいなくなられたら、俺が困んだよ」 今なら言える。 十王院カケルとして為したいこと、すぐ目の前に現れた願いがひとつある。素直に願えるようになるまで、ずいぶん遠回りをした。こんな単純なこと。 「ありがと、タイガきゅん。好きだよ」 「うるせぇよ、カズオ」 「……俺の名前は、カーケール。」 一緒に飛びたい。タイガ――お前と。 ◆ 僕たちは光の階段を昇ってステージへ立つ タイガが自然と目で追うその先にはいつだってカヅキさんがいることを、最初から知っていた。けれどもそうしてあのまっすぐな視線の先に届かないまま重ねてきた日々のすべて、エーデルローズに来てからのどんな一日だって、ひとつだって無駄なことはなかった。 いまこの瞬間、憧れていたそのまなざしがまっすぐにこちらを見つめている。 これから向かうステージの光を背中に浴びながら振り向いて、タイガが笑った。 「行くぞ、カケル」 期待と少しの緊張を湛えたその瞳に、たしかに自分が、カケルが映っていた。 ああ、いつかこんな日が来ることをずっと夢見ていた。俺は、その目に見つけられた十王院カケルは、なんて幸せな奴なんだ。 俺自身が嫉妬してしまいそうなほど、その瞳に映った俺は、幸せそうな顔をしていた。 タイガにとっては何気ないことかもしれない。 それでも、今日という日に見たタイガのこと、その熱くまっすぐな瞳が見つめていた『カケル』のこと。これからどんな道を歩もうとも、たとえ『いつか離れる日が来ても』――俺は、一生忘れないだろうと思った。 静かにステージに上がり、サイリウムの光に満ちた会場を見渡す。オレンジと緑、全然違う色だけれども、案外取り合わせは悪くない。俺たちらしいなと思った。 照明が一斉に点灯すると、ひときわ大きな歓声が上がって身体中を震わせる。 「よぉ、待たせたな」 「子猫ちゃんたち、いつもおれっちを応援してくれてるファンのみんな、今日は俺たちのショーに来てくれてありがとねん! 大好きだよ〜!」 「ったく、チャラチャラしやがって」 観客席へ向かって投げキッスをしながら会場を沸かせる俺に、タイガが不服そうな顔をする。ステージの上にいる間は徹底してこのキャラを守る俺と違い、タイガはMCまで素のままだ。この反応もまるでいつものエーデルローズの寮で交わす会話みたいで、なんだか不思議な気持ちになる。ステージという非日常に日常が入り交じる感覚。 なるほど、たしかにステージの上の俺たちは、エーデルローズのカケルとタイガだ。 「タイガきゅんとおれっちっていつもこんなだけど、これから俺たち、意外と息ぴったりってところを見せちゃうから! みんな、応援シクヨロ〜!」 「ま、見てろよ、お前ら」 そうして自信たっぷりに宣言するタイガが一瞬見せた笑顔がスクリーンに映し出されて、ファンが大きく沸く。 まったく、タイガだってそういうとこ、ずるいよなあ。 スポットライトの光が降り注ぎ、眩しく俺たちを照らす。 背中合わせの立ち位置。わずかに触れて熱を帯びた背中越しに、タイガの鼓動が伝わってくるような気がした。その鼓動は俺自身のものと溶け合っていく。タイガの顔は見えないけれど、想いは通じ合っているって感じられた。 俺たちのデュオショーが始まる。 「飛ぼう、タイガ」 届くかわからないような小さな呟きだったけれど、タイガはおう、と力強く答えた。 このショーが決まってからずっと聴き込んできたメロディーがステージに流れ出す。 新曲、今日が初披露だ。 十王院財閥を継ぐまでに、なにかを為したかった。そうすればきっとなにかがつかめるのだろうと、根拠もないけれど何故だろうか、ずっと信じていた。 そんな漠然とした願いはあの日、輪郭を得た。プリズムスタァになりたいと思った。輝いて、きらめいて、心から自由になってプリズムジャンプを飛びたかった。 十王院一男として生まれたこの人生、生まれながらに定められた未来は、簡単に捨てたりなんてできやしない。俺は十王院の跡継ぎになる。父の後継者として十王院の家を背負っていく。その思いは今でも変わらない。 それでも俺はいつしか夢を持っていた。自分を自分として見てほしかった。素直な自分のまま、楽しく過ごせる場所が欲しいと願った。それが今、十王院一男としての人生しかなかった俺の、高校生の三年間だけ許されたモラトリアムだ。 でもそれでいい、モラトリアムで何が悪い。 将来が決まっているというだけで、プリズムスタァとして生きていけないというだけで、それが夢を諦める理由になんてなるものか。十王院一男が手放せないものであることはわかってる、それで構わない。だったら俺はそれを受け入れた上で、十王院カケルにだってなってみせる。どちらかしか選べないなんて誰が決めた。選択肢がふたつあるなら両方掴み取って、おいしいとこ取りしてナンボでしょ。このステージに立てる時間に期限が決まっているだけ、三年もあれば十分だ。どうってことない、やってやれないことはない。 だって隣にはタイガがいる。 俺が見失いかけたカケルを、タイガはもう一度見つけてくれた。タイガの横にいるだけで、カケルという存在が強く形作られる。ありがとう、タイガ――なんて、照れくさくて気持ちを素直に言葉にできないのは、タイガだけじゃないらしい。 そんなタイガがもし俺を必要としてくれるなら、それに見合う俺になりたい。 いつかカヅキさんとステージに上げたヒロさんのように、あるいは黒川冷をプリズムキングカップに出場させた現役時代の聖さんのように。タイガが『同じ舞台で戦いたいと思える相手』に、もし俺がなれるなら、こんなに嬉しいことはない。 タイガの心を熱く燃やすくらいに俺も高く、飛んでみたい。 「『クラウド進化!カケルノミクスファンド』――!」 新しく習得したばかりの会心のプリズムジャンプ。決まった――高揚感が体のド真ん中から末端まで響き渡って、指先をびりびりと痺れさせる。観客がひときわ大きく歓声を上げた。音の波が脳を揺らして、わけがわからなくなりそうな快感に襲われる。 着地の瞬間にタイガと視線が合う。やるじゃねえか、と表情で伝えてくる。ふたり真逆で対称の振り付け、正面を向いた俺に対して観客に背中を向けたタイガの笑顔。みんなに見せられないのがもったいないけれど、俺だけが知っているってのも悪くないなと思った。 そのままタイガが、高く、高く飛ぶ。 「『情熱全開!ライジングタイガーハリケーン』っ!」 ああ――プリズムショーは楽しいなあ。 再び交わした視線、思いが伝わる。なあ、一緒に飛ぼう。もっと高いところまで行こう。カヅキさんだけをまっすぐ追いかけてストリートで生きてきたタイガが、共にこのステージに立ってくれたことの意味を果たそう。 『ストリートでもプリズムショーはできるけど、たくさんの人に見てもらうなら、やっぱステージだろ』って、俺の存在証明に付き合って、一緒に飛ぶために、柄でもないくせにこんなところまで来てくれちゃって。 俺が、カケルがここにいたという証、ステージに立っている間に出会えるすべての観客の心に俺のきらめきごと焼き付けてあげるから――今日も、絶対に忘れられない夜にしよう。 俺はエーデルローズの十王院カケル。 プリズムショーに恋をして、限りある今を精一杯に駆けるプリズムスタァだ。 ◆ 天使のはしごを昇る日に 「本日はありがとうございました、一男さん」 「こちらこそ。これからもどうぞ、十王院ホールディングスをよろしくお願いいたします」 来賓の背中を見送り、会議室の扉が閉まる。長丁場の打ち合わせを終え、達成感と心地よい疲労からふうとひとつ溜め息を零す。腕時計の針は午後五時を示していた。 十王院のビルの高層から見下ろす東京の街並みは、淡いオレンジに染まっていた。先程まで空を厚く覆っていた雲はわずかに晴れ、隙間から覗いている夕焼け色の光が、街に差し込んでいる。 いまだ雲の向こうにいる太陽は顔を見せないが、その光だけが雲の隙間を縫うように、優しく降り注ぐ。薄明光線、または光芒――もっと俗に言うならば、天使の階段、あるいは天使のはしご。それ以外にも様々な名前で呼ばれる美しい自然現象。 美しく街に降り注ぐその光は、ステージを照らすスポットライトの光を思い出させる。 この先なにがあっても忘れることのないであろう輝かしい日々、愛おしい時間のこと。胸の奥、深いところでじわりと滲み出すあたたかい気持ち。懐かしさとはこんなにも切ない感情だったか、と、柄にもなく感傷に浸る。 こうして時折昔のことを思い出すことが増えると、自分も歳を取ったなあ、なんて感じてしまう。専務の役職にはまだまだ不相応な年齢ではあるが、同年代でも社会人として働き出す者が多くなって、仕事の話をすることも一般的な年齢になった。ようやく、という思いもあるが、働いているというだけで奇異の目で見られることがなくなるのは、それなりに嬉しいものだった。 だんだんと色濃く、ノスタルジックな橙色に染まる街並みを見下ろしながら、もう少し経てば定時の鐘が鳴る頃合いかと考える。この後はもう取り立てて予定はないものの、このまま自宅に帰るにはまだ早い。普段であれば再び仕事に戻っている時間だが、今日はここらで切り上げて、少し寄り道してから帰りたい気分だ。 あのはしごの上にいる太陽の顔を、見たくなったのだ。 電車がごうごうと走る高架下。 通り抜けた轟音の後ろ、コンクリートに反響してかすかに聞こえてくる、聞き覚えのある音楽の旋律と、甘い歌声。 「バーニングスプラッシュ!」 その声が上がった瞬間、ぱっと明るくなるようにきらめきが広がり、世界が華やぐ。火花が散るような熱が頬に走り、手に持っていた鞄を思わず取り落とす。重い鞄がどさりと地面に落ちる音に、はっとすると同時に気持ちが押さえきれず、いつのまにか走り出していた。 心が躍る。気持ちが逸る。足を止めるのももどかしい。きちんとした仕立てのジャケットを雑に脱ぎ捨てて、整った髪をぐしゃぐしゃと手櫛で乱して、あの輝く光の元へ、駆ける。 ああ――いつだって眩しい。どんなに遠くても、何度だって手を伸ばしてしまう。決して諦めたりできるものか、手放せるものか――この心のときめきを、プリズムのきらめきを! 「タイガきゅ〜〜ん久しぶりぃ〜〜! 俺っちが会いに来たよ〜っと!」 「おわっ! 誰だ、触るな離せ不審者か、ってカズオ! 邪魔だ離れやがれっ」 「も〜! まったくタイガきゅんったら、何回言えばわかるのかな〜?」 最後に首元を締めていたネクタイを緩めてそのまま引き抜き、俺は誇り高く名乗り上げる。 あの日に憧れていつかそうなりたいと願い、かつてはステージで、そして今はこの場所で、空を翔けるように自分らしいジャンプを飛ぶ、確かにここに存在するひとりのプリズムスタァの名前を。 「カーケールー! 俺の名前は、十王院カケル!」 夕焼け色のスポットライトに照らし出された街のストリートの一角で、俺たちは踊り始める。 『十王院カケル』は今も、楽しく自分らしく、生きている。 ◆ 天使のはしごを昇る日に あのデュオショーの日に、 昇ったはしごの向こうで。 日の光に照らし出されて、 俺は何度でも俺になれる。
2018.2.25 禁断のプリズム5にて発行