ロスト・ノスタルジア


床下に仕込まれた宇宙エンジンが仕事を終え、ぷすんとひとつ小さな音を立てて静かに消火される。
自宅兼シアターの「引っ越し」が終わったことを確認し、ハルと僕はふたり並んで玄関を出て、待ちわびていた地面を踏みしめる。数年振りに降り立った地球の、片田舎にあるひなびた温泉街。転勤の多かった父親に付き従って各地を転々としてきた僕たちが、そのうちのわずかな時間を過ごした街のひとつだった。
深い橙の太陽が、麓に広がる街並みを照らす。
湿度を含んだぬるい風が頬を撫でていく。深く傾いてもなお焦がすようにじりじりと差す夕陽の熱はいまだ冷めやらず、汗がまたひとつぶ首筋を伝った。
ふ、と隣に立つハルの呼吸が聞こえる。震える身体の奥からあふれてきたような、幼く熱を帯びた吐息。

「ようやく、ここまで来れた」

僕だけに聞こえるくらいの大きさの声、誰に向けるわけでもないひとりごとのような言葉がひとつ、ハルの唇から零れおちる。僕は返事をしなかった。――否、できなかったのだ。堪えきれず高鳴る鼓動を抑えたくて、深く息を吸って、吐く。
それ以上僕たちは言葉を交わすこともなく、橙色に染まった石段に佇んでいた。並んでただ、前を見つめていた。
そう、身も蓋もなく素直な言葉で表すならば、今、僕たちはとても緊張している。
僕たちが見つめる視線の先、引っ越しを終えたばかりの自宅の玄関を出てすぐ正面、道を挟んだ真向かいに見えるのは、由緒正しき建築で造られた立派な建物。その入口には、黒玉湯と記されたのれんが掛かっている。
憧れの人。かつてこの地球を守った愛の戦士。そして、絶対無敵の僕たちのヒーロー。
あの人が、ここにいる。

季節はもうすぐ夏が終わりを迎える頃合で、ぬるくて湿った風の奥にはほんのすこしだけよそよそしさを感じた。ふたりの間に言葉はない。街も声をひそめるように静かで、さみしそうになくヒグラシの声だけがいやによく響いていた。

ぼんやりと立ち尽くす僕たちの目の前を通り過ぎるように、無垢なかおで笑う学生たちが歩いてきた。くだらない話に忙しそうな彼らは、僕たちのことなど気にもとめない。すれ違う瞬間、こちらをちらりと一瞥して、またすぐに仲間たちとの談笑の輪に戻っていく。それだけだった。
通り過ぎる高校生たちの爛漫な話し声もすぐに聞こえなくなる。こんなものか、と思った。遥か彼方の銀河にまで名前が知られるようになったところで、この星では誰も僕たちのことを知らない。僕たちの思いなんてなにも知らないような顔でこの星は今日も呑気に回っている。
けれども、それで構わなかった。あの人さえいてくれれば、それに比べれれば他の誰だってなんだって興味のない、無価値なものだった。僕たちにとってあの人以外の大抵のことはどうでもよくて、瑣末なことでしかなかった。たとえ自分たち自身の存在すら捧げられるほどに。あの人に見つけてもらうためだけにアイドルになったのだ。苦しさもつらさもすべて覚悟して、受け入れた。
ただ楽しく過ごすことを許された時間、無邪気に無垢でいられる年頃、かけがえのないあおあおとした春の季節、そういうものをすべて諦めて、捨ててきた。そうまでしてショービジネスの世界に身を投じることで、ようやくたどり着いた舞台。
僕たちはギャラクシーアイドル、VEPPer。
この姿を見て欲しいと願う相手が、いまここにいる。何者にも代えられないたったひとりの大切なひと。

幼いころに離れたこの星に戻ってきた理由は、甘くせつないノスタルジーに浸るためなんかじゃない。
僕たちは、あの人にもう一度会うために、ここに来た。

地球に戻れることが決まって、まずなによりも真っ先に、あの人に会いたいと思った。
あの人に、ずっと伝えたいことがあった。心残りがあった。
眉難ランドで襲った怪人から身を呈して助け出してくれたことのお礼。あの日僕たちを助けてくれてありがとうと、ただ一言でも良い、伝えたかった。もう一度会いたい。
ずいぶんと遅くなってしまったけれど、僕たちは、ただそれだけをずっと願っていた。

あの人は、僕たちのことを覚えていてくれるだろうか。僕たちに気づいてくれるだろうか。成長した僕たちを見て喜んでくれるかもしれない。感動の再会になってしまったりして。もう一度頭を撫でてもらえたら嬉しいなあ。あの時のおにぎり、また作ってくれたりするだろうか。学校に行く時のお弁当として持たせてくれたりとか。いっそ僕たちの兄として家族みたいに、一緒に暮らしてくれたら、なんてそんな!
都合の良い妄想と理解しつつも止まらない。気持ちが逸り、浮き足立つ。
遥か彼方のアンドロメダで何年も煮詰めて募らせていた想い、心の中に育ち続けたのは執着にも似た強く焦がれるような憧憬。
最初はきっと、もう一度会いたいだけだった。ありがとうと伝えられればそれで満足だった。
幼い頃はただそれだけだった願いは、気づいたころには時を経て大きく膨らんでいた。
肥大しすぎた願いと期待、だけれどもそれは一方で、留まることを知らなかったエゴイスティックな欲望。ーーそんなこと、自分たちが一番、よくよく知っている。頭では理解していた。それでも止められない激情。

薄暮の石段に、ほそくのびるふたつの影が寄り添うように重なりあっている。
ハルが僕の左手をそっと取った。
――言いたいことは、わかってる。
絡めてくるなめらかでほっそりとしたゆびさき、そこに灯る確かなあたたかさが、じわり、染みこんでくる。いつだってひとりじゃないのだと僕に教えてくれる、いとおしいぬくもり。応えるようにやさしく握り返すと、わずかに強ばっていたハルの右手から力がふっと抜けていくのを感じた。

だいじょうぶだよ。
そう言い聞かせたのは、ハルにだろうか、それとも。

そのとき、手を繋ぎながら黒玉湯を見つめていた僕たちの前に、人影が現れた。
首元にかけたタオルで汗を拭いながら現れたTシャツとハーフパンツのラフな服装の男性。がっしりとした体格にあり余るほどの筋肉、たくましい腕に鉈を抱えたその人が、こちらを振り返る。
あ、と言葉にならない驚嘆の声が出た。
隣のハルも同じだったみたいで、二人揃って言葉を失う。
時が経ち見た目が変わっていても、すぐにわかった。テレビ越しに擦り切れるほど見返した在りし日の面影は色濃く残っている。あの日僕たちを救ってくれたひとの優しい目。一瞬たりとも忘れたことはなかった。
そこにいたのはまぎれもなく、憧れのマキシマムゴウラー、その人だった。
目の前の現実を受け止めきれず口を開けてぽかんと見つめるばかりの僕たち。
ゴウラーは訝しげな目でこちらを伺っている。見慣れぬ二人組に穴が開くほど見つめられれば当然の反応だ。
「君たちは……」
ゴウラーが僕たちに気づいてくれた!僕たちを見ている、声をかけてくれている!
金縛りにあったようだった気持ちが一気に沸き立ち、考えるよりも先に言葉が口から勝手に飛び出してくる。
「あ、あの」
「俺たちその、ええと」
「そう、僕たち今さっきここに来たばかりで」
「ここで銭湯をやってるって聞いて」
違う、そうじゃない。焦ってうまく回らない頭と言葉を必死に宥める。
言わなきゃ。
お礼、言わなきゃ。
繋いだ手をどちらからともなくぎゅっと強く握っていた。
「あの、」
「ええと。お客さんですか」

マキシマムゴウラー、と。
呼ぼうとしたその名前は、憧れていた人の名前は、喉まで出かかっていた叫びは、待ち望んでいたその瞬間を迎えることなく止まる。
少々の戸惑いを含んだその目。こちらを伺うような視線。
ああ、ゴウラー。大好きなひと。あなたは、僕たちのことを――。

「…いえ」
「違います」

ぐっと言葉を飲み込んだ。
憧れの名前を呼ぶことも、感謝の言葉も、覚えていますかと問いかけることも、すべてを我慢した。
あるいは、ただ本当に言えなかっただけなのかもしれない。


「……? そうですか」

ぺこりと会釈をして。
それだけ。
それだけ言って、憧れのあの人は建物の中に戻っていく。あんちゃん、と呼ぶ子供みたいな声が聞こえた。その声に応えるその横顔に、優しい瞳に、あの日眉難ランドで見たヒーローの面影を感じてしまう。疑いようもなく確かにこの人がかつて憧れた僕たちのマキシマムゴウラーであり、今はそうではないのだと理解させられてしまう。なによりもそのことが心に刺さる。

「……わかってる」
「……僕たちが勝手に期待していただけだ」
「でも」

どちらともなく言葉をなくして、そのままどのくらいそうしていたかわからない。けれどいつのまにか日はとっぷりと暮れていて、雲に覆われた空からしとしとと雨が降り注いでいた。
傘もささず立ち尽くすふたりに雨が降り注ぐ。濡れた髪から滴る水は頬を伝って、ふたりの顔を濡らした。その雨は一晩中止むことはなく降り続いた。
星の見えない夜だった。

◆

薄暗い雲が立ち込める、見上げた空はあの夜みたいだった。
しとしとと静かな雨が降る夜。軒先から垂れたしずくがひとつ、前髪に跳ねていった。

「アキ。なにしてるの」

背後から声がしたと思ったら、青い傘がすっと視界にのびてくる。
同じ背丈のハルが背伸びして、空を仰ぐ僕の顔を覗き込むように見ていた。

「思い出してたんだ。地球に帰って来た日のこと」
「‥‥ああ」

たった一言で理解し合う。通じ合う。あの寂しさと悲しさも。
でも、とハルが言葉を続ける。

「でも、今は」

ふと伸ばした左手は、自然とハルの右手が迎えてくれた。
包み込んでくれるあたたかなぬくもり。

「うん。もう大丈夫」

変わらない。
このあたたかさはいつだって僕を強くしてくれる。
くす、と小さく笑って、ハルの手を引く。

「行こう、ハル」

繋いだその手を引いて、走り出す。
ハルの片手から開いたままの青い傘がふわりと離れて、風に舞う。
すぐ後ろで慌てたようなハルの声が聞こえて、それがなんだかおかしくて笑ってしまう。
降り注ぐ雨はつめたいはずなのに、繋いだ手がとてもあたたかくて、ふしぎと寒くはなかった。
靴が水たまりにぱしゃりと跳ねる。水しぶきが制服のすそを濡らす。
家の玄関を出て、お向かいさんの入り口まで。たった数秒、数十歩の距離をふたり駆け抜けて、走る、走る。憧れのあの人がいるところまで。
分厚い雲が夜空を覆い隠していたって、目指すべき星はこんなにも近くで僕たちを照らしてくれていることを僕たちは知っている。
だから、いくら濡れたって構わなかった。
もしもふたり揃って凍えてしまった日は、お湯に浸かればあたたまることを、温泉のあたたかさを、僕たちはもう知っている。
だったら、あとはこの左手のぬくもりさえあればなにも怖くない。
素直にそう思えた。

◆

黒玉湯ののれんをくぐって、こんばんはと声を合わせて挨拶。
番台ではいつも通り、憧れのあの人が待っていてくれた。

「ああ、遅くまでお疲れさま。今日のステージも大盛況だったようで、なによりだ」
「いつもお騒がせしてすみません、強羅さん」
「そんなことないさ。ふたりが頑張った成果だろう」
「強羅さんにそう言っていただけるなんて、とても嬉しいです」

へへ、とはにかんだようにハルが笑う。きっといまの僕も同じ顔をしている。強羅さんに褒めてもらえるなんて、ああ、なんて幸せ!
黒玉湯に立ち寄ったついでにこうして強羅さんと言葉を交わすのも日常になりつつある。少し前までは想像すらできなかった、夢のような。だけれどもこれは確かな現実で、僕たちの幸せな日々だ。

「そうだ、今日はフルーツ牛乳があるんだ。残り物ですまないが、よければ」
「とんでもないです、いただきます!」
「いつも気遣っていただいてすみません」
「じゃあ上がったら声をかけてくれ」
「「はい!」」
「それでは、ごゆっくりどうぞ」

強羅さんの顔には、あの日僕たちの頭を撫でてくれたときと同じ微笑みが湛えられていた。
天にも舞い上がりそうな心持ち。
ああ、当たり前のように何度だって言えることが、こんなにも幸せだ。
それは、ずっとずっと、伝えたかった言葉。

「「ありがとうございます、強羅さん」」