いとしき星々


1 いと愛し日々

「ブラザーズ先輩~!」

澄んだ冬の空気を突き抜けるような、透明な声。
眉難高校からの帰り道。通学路の長い長い石段を降りた先、黒玉湯ののれんの前で、見慣れたふわふわ頭が飛び跳ねながら、僕たちに手を振っていた。

「あ、あいつまたあのセーターを…!」
ユモトの服装を見咎めたハルが、ユモトめがけて階段を駆け下りていく。
ユモトが着ているのは、僕たちがクリスマスプレゼントとして、強羅さんのために手編みした、大きなハートマークの入ったセーター。プレゼント交換の名目の中でそういえばユモトの手に渡っていたような気がしなくもないが、それはそれ、僕たち的には、強羅さんへのプレゼントだ。
すぐに階段を下りきったハルはそのまま、低めの位置にあるユモトの頭を、わしっと掴んで振り向かせる。
「ユモトお前、そのセーターは俺たちが強羅さんのために編んだんだぞ! 返せ、強羅さんに!」
「確かにちょっとでかいけど、俺は気にならないっす! だってあったかいんすよこれ~!」
「お前が気にするかどうかは聞いてねえ~!」
「素敵なクリスマスプレゼントをあざっす!」
「お礼とか言うな! クソ~!」
ハル、照れながら怒っている。ユモトと話すといつもこうだ。まっすぐな褒め言葉に弱いんだから、と小さくため息をつく。
「一人でなに遠い目してるのさ、別府兄」
「……書記の人」
呼ばれて振り向くと、白い特注の眉難高校生徒会の制服に、ふわふわと揺れる長い髪。さらにその横には守銭奴と女好きの防衛部二年コンビ。先程まで教室で顔を突き合わせていたクラスメイトが揃いも揃って、再登場だ。
「ユモトはお前らとも仲良いよな~」
「ユモト、懐くのが早すぎるのではありませんか? 少し前まで怪人やらなんやら呼び出して、日々戦ってた相手に対する態度とは思えませんよね」
「いや別に、そんなに仲良くしてるつもりとかないんだけど」
無愛想な返事をする。いつもみたいに丁寧な言葉を返す気にも、皮肉を込める気にもならなかった。
「ふうん。まあ、僕はそれでも全然構わないけど」
「下呂君……貴方、別府君と微妙にキャラ被ってません?」
「言うなよイオ」
「ちょっと。僕のことは名前で呼んでっていつも言ってるよね」
「ああ。すみません」
「おいゲロ~! 細かいこと気にすんなって!」
「あのさあ、それわざとだよね? いい加減にしてほしいんだけど」
くだらない、ほとんどろくな意味もない応酬がいつまでも続いていく。ぎゃあぎゃあとやかましい。他愛のない会話で、年相応の顔で、怒ったり笑ったりくるくると表情を変える。
――つくりものの、からっぽな笑顔を貼り付けたまま生きてきた僕たちとは、全然違う。
「……僕に構ってないで、早く行きなよ」
「でもさあ、どーせお前らも黒玉湯、行くだろ?」
「先に行ったところでどのみちすぐ顔を合わせるのですし、ユモトもあの調子ですし。みんなで行きましょう」
彼らの視線の示す方向を見れば、ユモトに褒め殺されてどろどろになっているハルがいた。
「まああれだ、放っとかれたからって拗ねるなよ、『お兄ちゃん』」
「は? 誰が拗ねてなんか――」
軽薄な一言を残して、防衛部の片割れがカチューシャから飛び出した髪を跳ねさせながらユモトを取り押さえに行く。
ああ、本当に嫌だ。ハル以外の人間に、同じものみたいに扱われて、馴れ馴れしく踏み込まれるのは。
あたりまえみたいに、僕たちも一緒に行くだろうと声をかけてきたこと。仲間みたいに――まるで、友達みたいに、僕たちを扱うこと。彼らにとってそれは当然のことなのかもしれないれど、僕たちにとっては、そうじゃなかった。
人との距離が近づくとはこういうことなのだと頭でわかってはいても、自分の中のどこかがそれを嫌がる。
親にも同級生にも大人にも、誰にも理解されずたったふたりきりで生きてきたこと、そうするしかなかったこれまでを、今更そうですかなんて簡単にひっくり返せないのだ。
「アキ〜!」
ユモトだけでなく同級生の三人にまで揶揄され始めたハルが、助けを求めるように僕を呼ぶ。
それでいいのに――そうして僕だけ頼ってくれるなら、それだけでいいのに。
冷たい冬の木枯らしが、ぴゅうと制服のすそを通り抜けていく。防衛部と生徒会と、ユモトと、ハル。あの輪の中にいるハルは、なんだか、遠かった。



2 we’ll

きっと誰にでもあることだと思う。
朝起きてみたら、なんとなく学校に行く気にならなかった。ただそれだけのこと。
見上げた窓の外から、小鳥のさえずりが聴こえた。爽やかないつもどおりの朝、それなのになぜかどうしても起きる気にはなれなくて、朝の太陽でぬるまった雪融け水がぽたり、ぽたりと屋根から滴っていくのを、ただぼんやりと眺めていた。
よく晴れた、冬にしては暖かい陽気の日だった。
そうしてしばらく寝転んだままぼうっとしていたら、同じ布団で眠っていたハルが、ついとパジャマの袖を引いてきた。
「おはよう、アキ」
「おはよう、ハル」
「……なあ、今日、学校行かないでさ、どっか行こうよ。遠いとこ」
同じ気持ちだったみたいだ。嬉しくなると同時に、ハルの方からそう言ってくれたことに、なんだかほっとした。
学校をサボることを決めるまで、たったの二言。
こういうときばかりは、互いの気持ちがわかりすぎるのも考えものかもしれないなあ、なんて、少しだけ思う。
「うん、いいよ」
しょうがないなあハルは、って頭を撫でて、甘やかすふりをする。ほんとは僕だって同じ気持ちだったのに。
こういう時に僕ってずるいなあ、って思う。そんなのとっくの昔から知ってたけど。昔から口が達者で、人の弱みばかり目につく性質だった。嫌味な子供だったんだろうなあ、なんて思うし、当時関わりのあった大人には少しは同情しなくもないけれど、これが僕なのだから今更どうしようもない。
そんなふうに余計なことばかり考えている僕の思考なんておかまいなしに、ハルが布団をかぶり直すのに巻き込まれて、僕の身体はふたたび柔らかいベッドに沈み込む。布団とハルのパジャマのにおいが、ほのかに甘く香る。
しあわせだった。

ハルのシャツのボタンを、ひとつひとつ、丁寧に留める。今日は制服のワイシャツでなく、動きやすい私服のゆるめのシャツだ。
仕事で学校を休みがちな僕たちは、登校しないことも、夜中まで働いていて朝方には姿を見せないこともある。だから学校をサボるといったって、たいした非日常という雰囲気でもないし、特に他の人からも不審に思われることもない。急な仕事のふりをして、教師には一言伝えて了承を取っておこうかな、なんて、頭の中でこそこそと小狡い計算を働かせる。
オーブンでは、じりじりと焦げ目をつけてトーストが焼けている。仕掛けておいたコーヒーメーカーが、水音を立ててコーヒーを落とす。ふたりきりの静かな家で動き始めた家電のねむたげでかすかな音が、でも確かに朝が始まったことを教えてくれる。そのうちにキッチンからふわりと良い香りが漂ってきて、僕の頭もようやく目覚め始める。
授業が始まって取り巻きのエイプスたちが残らず家の前からいなくなるまで、ゆっくりと時間をかけて身支度を整える。
あてのない旅行に出かけるための準備は、一日分の着替えだけ。ふたりぶん、鞄に詰め込んだらそれで終わり。
なにしろ、なにひとつ決まっていないんだ。
家を出たら、学校とは逆方向、ひなびた商店街を通り抜け、駅に向かう。出勤ラッシュの時刻はとうにすぎてすっかり人気のない駅のホームで、ハルとふたりきり並んで電車を待った。
「ねえ、どこに行こうか」

ぷしゅ、と気の抜けた音で扉が閉まる。
朝と言うにはずいぶんと遅く、昼と呼ぶにはすこしだけ早い、曖昧な時間。
電車に乗っても人はまばらで、網棚の上に荷物を預けたあとは、ゆったりと座席に腰掛ける。見慣れたのどかな風景が、窓の向こうで流れ始める。
ごとごと、のんびりと、だけれども確かに、僕たちのあてのない旅が始まった。
揺れる電車の中で行き先を探す。既に電車は走り出しているのに、その電車の中で行き先を見つけようとする矛盾。
だって、ほんとうはただなんとなく遠い場所へと、流されて行ってみたいだけなのだ。
車内の扉の上にある路線図で、電車の向かう先の地名をいくつか眺める。そのうちのひとつに、ひっかかりを覚えて視線を止めた。
「ね、あそこに行こう」
ゆびさした路線図の端、その目的地の示し方はどこまでも曖昧だったはずなのにあっさり伝わってしまったみたいで、オッケー、とハルがすこし楽しそうに笑った。
その地名にはハルも見覚えがあるはずだ。
いつかハルと二人で行きたいなと話していた、強羅さんから教わった温泉地のこと。そのとき、ふと思い出したのだ。

あてもなく乗り込んだローカル線にそのまま揺られて終点まで来たら、ターミナル駅で人混みに揉まれながら乗り換える。
高いビルが立ち並ぶオフィス街の景色が、次第にふたたび落ち着きのある住宅街へ、そして森や川へと変わっていく。
隣のハルは、いつのまにか僕の肩に頭を預けて眠っていた。耳元で、すうすうと規則正しい寝息が聴こえる。正面の窓ガラスに映るハルの寝顔は、なんだか幼く見えた。
最近疲れてたのかなあ。学校、たくさん人がいるし。
僕たちはアイドルで、もちろん、学校にもファンのエイプスがたくさんいる。その数も日々増えていく一方だ。そんな環境だから、なんとなく笑顔を心がけたり、アイドルらしい立ち居振る舞いを意識してみたり。どうしても。そういう気の張り方はしてしまう。
アイドルとして、ファンに対してあんまり格好悪い姿は見せたくない。打算抜きに、そう思うようになったのだ。
かつて彼らがファンであることにつけ込んで、自分勝手に嫉妬心を煽って怪人に仕立て上げてきたこと、決して忘れたわけじゃない。僕たちはアイドルとして夢を見せることで、彼らが変わらず僕たちに贈ってくれる愛に報いたい。
それが、なにも知らない彼らを利用したことに対する、僕たちの贖罪だ。

がた、ごと。
揺れる電車の中、ただの『僕たち』は誰にも気づかれることなく、遠いところへ運ばれていく。
終点まではまだしばらく時間がある。
「だからもう少し、いいよ」
呟いて、起こさないようにそっと頭を撫でる。
むずがるようにむにゃむにゃ言うハルを、素直にかわいいと思った。

結局、その後は目的地までひたすら目覚めることなく熟睡していたハルを起こして電車を降り、温泉に到着した頃にはもうとっくに日も暮れた時間だった。
電車の中で適当に探して予約した宿へ、なだれ込むようにチェックインする。
二人一室、畳張りの和室。
普段があの家だから、この和室と畳は新鮮に感じる。あるいは、わずかな懐かしさ。うっすらとした記憶を辿ると、幼いころ住んでいた家もたしかそうだったはずだったと思う。寝る時は布団なのかな。いつもはベッドだからこちらもちょっと楽しみだ。
客室係からひととおりの説明を受けて、ようやく部屋の座椅子に腰を落ち着けたところで、どっと疲れがわいてくる。なにしろ半日、ほとんど休みなく電車に乗っていたのだ。コンパクトにまとめたとはいえ軽くはない荷物も持っての移動、肩も腰も凝り固まっていた。とはいえ万一にもこのまま眠ってしまうわけにはいかないので、身体の凝りをほぐす意味も兼ねて。
「温泉、行こうか」
畳の上に倒れているハルに声をかけると、呻き声だけが返ってくる。まあ行くのだろうと察して、戸棚から二人分のタオルや浴衣を引っ張り出した。ハル、ずっと同じ体勢で座ったまま寝てたから、僕よりも体中の筋が固まっていそうだ。でろんと両手両足を伸ばして突っ伏している。
横にしゃがみ込んで、行くよ起きて、とぺしぺし背中を叩いて急かすとようやく起きてくれた。
「起きてるよ」
「電車であれだけ寝てたのにまた寝てたら、逆にびっくりだよ」
「悪かったってば……別に、起こしてくれてもよかったのに」
「僕、温泉あがったらフルーツ牛乳飲みたいなあ」
「帰り、二本買うから」
「ありがと、ハル」
にこ、と笑いかけると、ハルはむうと唇をとがらせた。

ふたり並んで、温泉に入る。
比較的小さめの湯船、二人で占領するには少々広いけれども、僕たち二人が入るこの湯船に入り込んでくる勇気のある客はいないようなので、広々と使わせてもらうことにする。
なんだか今日は静かに思えた。理由はわかってる。ここのところ黒玉湯に行くたび防衛部やら制服部やらと一緒で、ずっと騒がしかったから。
ふとした会話の間にも、たまに、しんと静かになる瞬間があって、なんだか不安になってしまう。あれ、変だな。これまでもずっと、こうしてふたりきりでいたはずなのに。
「……なんか、寂しいよね」
つい言葉にしてしまう。なにか言いたそうだったハルを、遮るように言う。
もしハルが同じことを考えていたら、同じことを言うつもりだったら――。
ハルの口からそれを聞くのが、怖くて。
「――アキ」
「あ。今日、満月なんだね」
空を見上げる。ハルから逃げるように目を逸らす。
ハルはなにも言わなかった。
肩から上を外気に晒し、浴槽の渕に突っ伏すように腕を組んで、ハルが空を見上げる。
外灯に照らされるハルの白い背中とうなじ、それを際立たせる背景のような漆黒の夜空に、満月が浮かぶ。すこし上気して赤みのさした頬がいとおしい、きれいな、ハルの横顔。
僕だけ見てくれていればそれでいいのに、なんて、子供じみた嫉妬だけれど。
その悩ましげな紅い目にまっすぐ見つめられる月に、少しだけ嫉妬した。

実際のところ、僕は逃げたのだった。
ハルにすら隠したいと思っているどろどろとした感情、見せたくない一面。ある時から、僕はその感情の存在を自覚していた。
双子の兄であるところの僕は、双子の弟であるハルにとっての一番でありたいと思っているのだと、そんな幼い独占欲のこと。
別に、兄だから、なんて気負ったことはないけれど。
それでも、これまではそんなことは当たり前だったから、気づいていなくたって問題なかったのだ。だって僕たちはずっとふたりぼっちの世界で生きてきた。互いしかいなかった、互いを頼りにすることでしか、僕たちは生きていけなかったんだから。
でもあの頃とは違う。これは未来の話、これから先の話だ。
両手同士を互い同士でつないで、自分たちだけの輪にとじこもっていた僕たちは、あの日あの時、アイドルの愛をみんなにお返しすることを決めたあのステージで、ファンのみんなに愛を届けるために、それぞれの片手を空けた。
外のみんなと手をつなぐために。ようやく見つけた、たくさんの大切な人の手を取るために。

大切な人が増えて、愛する人の数が増えていく。しあわせな毎日。でもそのたびに、確かにしあわせなはずなのに、僕は不安を覚えていた。
いつかこんな日が来ることは知っていた。ふたりぼっちだったひとつがひとつじゃなくなって、大人として、別々の存在になって、僕たちそれぞれの時間を生きていかなければいけないこと。
そんなこと、知っているつもりだった、けど。
いざ目の前に迫ってみれば、それはただ恐ろしかった。

☼

電車の中でぐっすり寝てしまった自分をここまで運んでくれたことへのお礼と、ほんのちょっとの申し訳なさの形。フルーツ牛乳、アキのぶんと合わせて二本。湯上がりに、宿のロビーにある自販機に立ち寄った。
温泉でよく見る、瓶の自販機。ぽちりとボタンを押すと、クレーンがゆっくりと瓶を取り出して運んでくれるやつ。
そのゆっくりとした動きを見ていて、ふと思い出した。
「あ、こないだも、フルーツ牛乳ジャンケン負けたんだ、俺」
「――なに、それ?」
アキの問いかける声に適当な返事をしながら、小銭入れの中身を手のひらにひっくり返す。中にあるはずの百円玉がなかなか見つからない。
「あれ、あのときアキ、いなかったんだっけ? ユモトがさ、ジャンケンしようって言うからジャンケンでおごる方決めたんだ、負けたけど。ちぇ」
ようやく見つけた百円を投入して、二本目のフルーツ牛乳が降りてくるのを見守る。
「ていうか、あいつ月の小遣い500円らしくてさ、負けても俺のぶん買えなかったんじゃないかって思うんだけど」
話しながら、自販機からもう一本の瓶を取り出して、振り返る。

「……アキ?」



3 いつしか星も

夜の海は宵闇を水に溶かしたみたいにまっくらで、ごうごうと音を立てる波が不気味に、まるですべてを飲み込もうとしているみたいに揺らめいていた。
薄雲の向こう、かすかな月明かりだけが照らす夜を、無我夢中に駆ける。ああ、わけがわからない、なんで走っているのかも、どこに向かっているかも。だけれども、とにかく、ひとりになれる場所に行きたかった。
人気のない海岸。飛び出した勢いのままつっかけてきたサンダルは、走るのには全然向いていない。やわらかい砂に足を取られて思うように動けない。肌蹴た浴衣の間を容赦なく冷たい潮風が舐めていく。さむくて、いたくて、それでもわけもわからず、前に前にと、どこか遠くに向かって走った。
「アキ!」
名前を呼ぶ声が聞こえる。ハルが追いかけてくる。
ああ、らしくない、らしくないに決まってる。鼓動がどくどくとうねりをあげる。くるしい。うまく息ができない。だめだ、だめだ、だめだ。じょうずに表情を取り繕うための余裕さえ見せられない。もしここに鏡があったなら僕はよほどみっともない顔をしてるに違いない。どろどろとした嫉妬にまみれた僕の顔を、やめて、見ないでハル、来ないで、おねがい、こんな僕を見ないで――。
「アキ!」
「離して」
「いやだ」
「離してよ……」
そんなふうに引き止められたら、もう、逃げられない。
遠くで風が吹いていた。夜空を覆い隠していた雲が次第に晴れて、満月の光が僕たちを照らした。
真摯で透き通るようなふたつの紅玉の瞳が、まっすぐに僕を捕らえる。
月明かりの下、ハルと目が合った。
瞬間、ハルがはっとした顔をする。
「アキ、」
思わず腰が抜けて、座り込んでしまった。
ハルの手は僕の腕を掴んだまま、ふたり浜辺に座り込む形で向き合う。
ルビーの瞳からはもう逃がしてもらえない。
ああ――ぜんぶ、ぜんぶ知られてしまう。

昔からそうだったんだ。
僕たちはいつだって名前のとおりに月と太陽そのものだった。
ハルがいるから僕がいられた。
まるで太陽が月を照らすみたいに、悲しみだってよろこびだってハルが僕に分け与えてくれた。僕はハルのことだけ大切にしていれば、それですべてが事足りた。ハルが照らしている世界、それこそが僕にとっての世界のすべて。
つっけんどんな物言いばかりで、わがままで、そのくせ、からかわれたりほめられたりしたらすぐに照れてしまう。
なんて眩しい、僕だけの太陽。
――僕にとってのハルがそうであるみたいに、ハルにとっての僕もそうであったらよかったのに。
太陽は、あまりにも、眩しすぎて。
月なんかと違って、よっぽどたくさんのひとに、その光を届けられてしまう。
「ハル」
「……なに、アキ」
「行かないで、やっぱりやだ。ねえ、いなくならないでよ、ずっと僕のそばにいて、僕だけ見ててよ、ハル」
これからハルに、僕の知らない思い出ができていく。
僕の知らないハルが生まれる。
僕の知らないハルが生きていく。
そんなこと、ちっとも耐えられなくて。
「……アキ」
「ほんとは我慢したかった、こんなこと言いたくなかった! 僕たち、ふつうに友達みたいに、防衛部と生徒会と一緒に毎日過ごして、黒玉湯に通って強羅さんにも会えて……こんなにしあわせなはずなのに、もうふたりぼっちでいなくてもよくなったのに、それなのになんでかさみしくて、怖くて、嫌だって思っちゃって」
だってハルは僕のものだって、ずっと僕だけのものだって、思ってたから。
「ハル、やだよ、ハルが遠くに行っちゃうのは、いやだよ……やだ、やだ、やだ……」
堰を切ったように溢れてくる。
こんな気持ち、ハルに見せないように、綺麗な部分だけを切り取って見せて、ずっと上手に隠してきたはずだったのに、今更になってこんな。
執着。依存。ハルに見せたくなかった、僕ばかりがこんな気持ちを抱いてること。勝手に自分の気持ちだけは隠し事をしていて、そのくせハルのことはなんでも知っていたかった。
そんなずるいことばかりして、ハルが僕のものでいてくれるって傲慢な欲望を、信じ続けていた。
ズルはもうお終いだ。
牛乳瓶のふたの開け方、湯上がりのフルーツ牛乳の味、黒玉湯の温度。全部みんなと過ごす中で知ったこと。僕たちの体に、いつしか染み込んでいた。

足元に、フルーツ牛乳の瓶が二本、転がっている。
とっくのとうに、わかってた。
もう、ふたりぼっちじゃいられないこと、

逃げ出した僕の腕を掴んでいたハルの手に、逆側の手でそっと触れる。
ハルのために、この手はきっと、もう離してあげるべきだ。そう思っていた、はずだった。
なのに。
「ごめんね、ハル、ごめんね……」

それでも一緒にいたかった。

「……なまいき、なんだよ」
ハルがまた僕の腕を掴む。
「おれだって、アキが隠してることがあるの、知ってた……」
言いたいことはわかってる、なんていつも言うけれど。
それはただの結果論だ。
「双子だからって全部がわかるわけじゃなくて、アキが教えてくれようとしてるからわかるんだってこと、そんなこと、俺だって知ってたよ。そうじゃないことはきっちり隠して、アキは昔からそうだ。でもそれでも良かった、不安になったことなんてなかったよ、だってそれはアキがおれのこと大事にしてくれてるからだって、ちゃんと知ってたから」
互いにわかるのは、伝えようとしていることだけ。
そんなこと、僕だけじゃない、ハルだってわかってた。
「不安なら、隠さないで教えてくれればいいんだ」
握った腕をそのまま引き寄せて、ハルが僕の身体を抱きしめる。たぶん、抵抗したらすぐに逃げられたと思うけれど、もう逆らわなかった。
「もっと早く、こうしてくれれば、よかったんだ」
ぎゅっと抱きしめられて、ああ、あたたかいな、と思う。冷えきっていた身体をふたたび血液がめぐりだすみたいな感覚がした。
ハルの髪が鼻先をくすぐる。安心するにおいがする。
すう、と身体から力が抜けていく。
「アキはずるいよ、全部ぜんぶしってる。おれのことなんて全部わかったふうにして、勝手なんだよ、俺たち双子なんだからなんだって半分に分け合えるんだろ、なんで勝手に全部自分だけ抱えちゃおうとするんだよ……おれにもちょっとくらい任せてくれたっていいだろ、双子、双子って言っておきながら都合の良いときだけ自分だけ兄ぶって、おれのことは子供みたいに扱うんだ――ずるいよ、アキは」
アキはずるいんだ、と、ハルが言い聞かせるみたいに、ぽつりぽつりと話す。僕はなにも言えなかった。
掴んでいた腕を離して、そのまま手を取られる。
そっとゆびをからめる。
ああ、こうして手を繋ぐのも、なんだか久しぶりだ。
「ちっちゃい頃にさ、『こわくなったら、こうすればいいんだよ』って、アキが俺に教えてくれた」
ちいさな俺に、ちいさなアキが教えてくれたんだ、って、おおきくなったハルが、僕に教えてくれる。
よく知ってる、いつもどおりのハルのあったかい体温のぬくもりが、冷えた手のひらの先からじわりと伝わってきた。

「あのさ、これから先もずっと一生、アキはおれの兄で、おれはアキの、おとうとだから」
勝手に離そうとすんな! って、はじめて少しだけ怒ったような口調で言って。
そして、ちょっとだけ泣きそうな顔で、やさしく、笑った。

「ハル……なきそうなかお、してる」
頬にそっと手をのばす。精一杯絞り出した声は震えていた。
「なに言ってんの、アキ、自分が泣いてるくせに」
呆れたみたいな顔のハルにぽんぽんと頭を撫でられて、その拍子に、ぽたぽた、なみだがこぼれた。



4 片手だけつないで

そのうちふたりとも泣いてしまって、泣きながら部屋に戻って、そのまま夜明けまでふたりで過ごして。
夜中に外に出たせいですっかり冷えてしまった身体を温め直すために、ふたりで露天風呂に行った。
あの海が見えた。
昨日の夜のくらく冷たい印象とは違っていて、今朝の海は、朝日にきらきらと輝くみなもが眩しかった。

湯上がりに外のテラスに二人並んで座って、静かに海を見つめていた。
そのうちに、肩にもたれてくるライトブルーの絹糸。
隣を見ると、外ではめったに隙を見せようとしないアキが、珍しくうたたねをしていた。
走ったり泣いたりわめいたりして、夜を徹して過ごしたのだから、その疲れも当然だろうけれど。
ざあざあと鳴る潮風が、やさしく頬を撫でる。

昨日ふいに始まったこの旅のことだって、ほんとうは気づいてた。具体的にそれが何かはわからなかったけれど、アキがなにかに怯えていること、本当は知っていた。
だからねだるようにわがままを言った――「どこかに行きたい」、アキが願っていたこと、わかってしまうから。
甘えるふりをして、「いいよ」ってアキが言ってくれるのを待った。そうしたらすこしだけ、アキが安心したみたいに笑ってくれたから、ああこれで良かったんだ、って。
それがわかってしまうことを、アキが隠したがってることを覗いてるみたいで、ちょっとだけ後ろめたく思っていた。

昨日の夜、あれから、いろいろなことを話した。
これまでのこと、これからのこと。
互いに思うだけじゃなくて、たくさん話そうって決めた。
これから生まれるだろうたくさんの、ふたり別々の思い出のことも。
きっとこれから大切な人はたくさん増えて、自分だけの友達ができて。アキの知らない俺の思い出も、俺が知らないアキの思い出も、きっとたくさん生まれていく。
それでも変わらずにずっとこうして隣にいよう。
明け方や夕暮れ、水平線に昼と夜が滲むみたいに、太陽と月が交わる時間のように。前よりは少なくなるけれど、だからこそ、ふたりでいられる時間を大切にしよう。
ふたりでいろんなことを話して、一緒に眠ろう。
そんなことをふたりで話し合って、決めた。
それが今回の旅の顛末だ。

ちらりと建物の中の時計を見る。
もうすぐ今日も学校が始まる。始業時刻になんて間に合いっこないけれど、急いで帰れば午後の授業くらいは受けられるかもしれない。
それでも、今日は。
今日くらいは。

「そろそろだけどもう少し、いいよ」
隣で眠るアキの頭をそっと撫でる。

「いままでありがとう、『お兄ちゃん』」

○

「おはよう、ハル」
「おはよう、アキ」
「学校、行こうか」
「うん」
今度は、素直な気持ちで、自分から。
この逃避行のような旅の終わりを決めるのも、やっぱり二言で事足りるのだ。

今から帰っても放課後近くになりそうだけれど、防衛部や征服部たちと顔を合わせるくらいはできるかもしれない。
そうしたら一緒に黒玉湯に行って、風呂に入ろう。騒がしい風呂、ぽかぽかと心があたたまるあの風呂に、みんなと一緒に。
僕たちふたりの間にも遠慮なくずかずかと入り込んでくる、めんどうでうるさい奴らばかりだけれど。
それでもあがった後に夜空を見上げたら、きっときれいに星が見えるだろう。
いままでたったひとつの遥か遠くの一等星だけを追いかけてきたけど、いまは、大切な星は空にたくさん、きらめいている。

観光客が集まる土産物通りの人並みをすり抜けて、駅に向かう。街路に並ぶ桜の木は小さく固いつぼみをつけている。きっとあと数週間もすればめいっぱい咲き誇るだろう。
冬の季節は終わりを告げて、もうすぐ、春がやってくる。
平日の朝とも昼ともつかない時間。駅は、やっぱり空いていて、まばらだった。
改札をくぐってホームに上がれば、名残を惜しむ暇もなく、間もなくの発車を告げるベルが鳴る。

「電車出ちゃう――ハル、ダッシュ!」
叫んで、手を引いて走り出す。手のひらから、ほのかに伝わってくるぬくもり。愛おしい体温。
いつか別々の人間にならなければいけなかったはずの、双子で兄弟でたったひとつの僕たちは、これからたくさんの大切な人たちがいる場所に帰る。
そうしてそこで過ごす日々の中でふたり別々の思い出を作っていって、いつかはきっと、今よりすこしだけ別の、ふたりの人間になっていくのだろう。
けれど、きっと僕たちは、これでいい。
繋いでいるこの片手だけは、ずっと離さずにいるから。


発車のベルが鳴り終わり、それと同時にふたりが駆け込むように乗車する。ぷしゅ、とすこし間抜けな音を立てて、眉難市に向かう電車の扉が閉まった。


2017.12.13 ラブプリ8にて発行